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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol35 精神養子

「原爆孤児」と呼ばれた子どもたちの養育を支援したのが「精神養子」運動である。ニューヨークが拠点の週刊誌「土曜文芸評論」の主筆ノーマン・カズンズが昭和24 (1949)年 8月に広島を訪れて戦災児育成所も視察し、翌9月17日発行の誌上で「モラル・アダプション」(精神養子)を呼び掛けた34。

「精神養子と言うのは、米国人家族によって養われ、養父母の名前を持つようになる原爆孤児のことを考えてのことである。こうした孤児は山下夫人の施設(注 ・山下の妻禎子が所長を務める戦災児育成所)のような所で生活するが、保護と養育に関する責任は米国人家族が担うのである/山下孤児院では、子ども1人の養育費は1カ月当たり教育費などすべてを含め2ドル25セント(注・当時810 円)である/「土曜文芸評論」の読者で、この考えに賛同し原爆孤児を養子にしようという人があれば、私は喜んで仲介の労を取りたいと思う」

当時、米国は日本人移民を全面的に禁じた「排日移民法」(1924年制定)を続け、法的な養子縁組は不可能であった。そこで、カズンズは「次善の策」として「精神養子」縁組を提唱したのである。ノーベル賞作家のパール・バックや、ルポ「ヒロシマ」を著したジョン・ハーシーらが賛同し、事業に協力した。

カズンズは10月、広島市長浜井信三宛てに書簡を送り、提唱に対する反響の大きさを伝え、「資金が増えれば広島の全原爆孤児を支援したい」と申し出た35。市は12月、浜井を委員長に「広島市戦災孤児養育資金管理運営委員会」を設け、「戦災孤児の精神的な養子縁組」への協力を伝えた36。こうして日米にまたがる原爆被害者への支援・養育事業が始まったのである。

縁組は、広島側から送られた子どもたちの写真や経歴を基にした。第1号は昭和25年2月、戦災児育成所の11歳女子とミズーリ州教師で2児の父との間で結ばれ、育成所の71人が3月末までに「精神養子」となる。養育費や衣類、書籍のプレゼントにとどまらず、手紙も届いた。子どもたちの手紙の翻訳も広島在住の日系2世や大学生らが協力した。

「政府が広島を破壊し尽くし、君のような孤児をたくさん生み出したことは申し訳ない」(牧師・1950年4月25日付)。精神親の手紙は、原爆投下は必要だったとみるのが一般だった米国で、良心のうずきを覚えた市民が手を差し伸べたことを浮かび上がらせる37。日米の市民が協同した「精神養子」は、原爆を巡る互いの溝を埋めようとする、いち早い市民運動でもあった。

縁組は広島市外の養護施設や、母子家庭の子も対象となり、ピーク時の昭和28年末には409人を数え、養育費総額は昭和32年末までに約1747万円に上った38。これに触発されて、「広島子どもを守る会」による「国内精神養子」は起こった。85人が縁組し、最年少の孤児が18歳を超える39年まで活動を続けた39。

「精神養子」と米国市民とのつながりは、子どもたちが施設を離れると言葉の壁もあり自然と途切れる。広島市公文書館に残っていた互いの手紙や資料から昭和63年、中国新聞の先輩記者と筆者は、戦災児育成所にいた人たちの思いや歩みを「ヒロシマ精神養子」と題して連載・特集で報じた40。

消息が分かった38人のうち22人が、紙面でのイニシャル表記を求めた。「今にして思えば『見も知らぬ人がよくも…』と頭が下がります」と感謝の気持ちを表しながらも、「いまさら『原爆孤児』とみられるのは」「主人にも話していない」と実名を拒む人が多かった。多くが広島を離れて暮らしていた。

50歳前後になっていた元孤児たちは、人知れず努力を重ね、家庭を築き平穏な生活を手にしていた。戦災児育成所や広島市童心園を出てからも互いの結びつきは強かった。しかし、体験を表だって語ることには、実名で応じた人も抵抗感をのぞかせた。被爆者運動や平和運動は冷めた目で見ていた。多感なころから「原爆孤児」として新聞・雑誌に取り上げられ、世間の目にさらされた。言い尽くせぬ、第三者の推測を軽々に許さないものを押し抱いていた。

顧みれば昭和22年12月7日、天皇の広島巡幸に伴い戦災児育成所の近くで出迎え、対面は全国的に話題となった。選挙運動に駆り出された人もいた。米国からのプレゼントや、節目の退所・就職でも「苦難」「美談」ない交ぜで扱われた。29年3月1日のビキニ被災を機に原水爆禁止の声が起こると、運動団体からは発言や行動を求められもした。両親を奪われた原爆被害者でありながら、32年の原爆医療法制定に始まる被爆者対策や援護からは置き去りにされた。疎開地に取り残された人たちは被爆者健康手帳の所持者ではないからである。

現行の被爆者援護法は、平成7 (1995)年7月1日に施行され、昭和44(1969) 年3月末までに死亡した被爆者の遺族で手帳所持者であれば、孫にも「特別葬祭給付金」(1人国債10万円)を支給した。「原爆の痛ましさはだれよりも知っている」被害者たちは対象にすらならなかった。


34 Norman Cousins “Hiroshima——Four Years Later” The Saturday Review of Literature September 17, 1949 p.30

35 ノーマン・カズンズから浜井信三宛て書簡1949年10月11日(原爆資料館所蔵)

36 浜井信三からノーマン・カズンズ宛て書簡1949年.12月21日(原爆資料館所蔵)

37 「精神親」と戦災児育成所児童との一連の書簡は広島市公文書館が所蔵。

38 広島市役所編『新修広島市史』第3巻(広島市役所,1959年)808~810頁

39 広島県編『原爆三十年』(広島県,1976年)264~265頁

40 中国新聞1988年 7月13日~8月1日付「ヒロシマ精神養子」連載17回・特集3回

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