Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol3一 本土決戦体制と広島
1 中国地方総監府
アジア太平洋戦争末期、日本の敗戦が必至となるなかで、戦争指導部は本土決戦に備えた。 1945年 4月、連合軍の上陸で本土が分断された場合に備え、東日本の諸軍を統轄する第1総軍(司令部・東京)と西日本の諸軍を統轄する第 2総軍 (司令部・広島) を設置した。第2総軍は、第15方面軍(司令部・大阪)と第16方面軍(司令部・福岡)を統轄し、広島市二葉の里の元騎兵第 5聯隊跡に司令部を置いた。 6月には第59軍(第15方面軍隷下)および中国軍管区(各司令部の司令官は兼任)が創設された。宇品には陸軍の船舶輸送作戦の業務を遂行する陸軍船舶司令部(陸軍運輸部と二身一体)があり、内地・外地240隊、 30万人を超える部隊(暁部隊)を指揮する役を担った。広島は戦争末期にいたって、ますます陸軍の重要拠点となったのである。広島湾をはさんだ至近距離にある呉市は、呉鎮守府と東洋最大の兵器工場である呉海軍工廠を擁する海軍の拠点であった。
軍管区制にあわせ、中央政府から広範な権限を委譲された地方政府ともいうべき地方総監府を設置することになった。中国5県を管轄する中国地方総監府は広島市に設置され、地方総監には、広島県知事で中国地方行政協議会会長の大塚維精が就任した。地方総監は強大な権限を有していた。 中国地方総監の場合、中国地方の国の出先機関および中国 5県知事への指揮権、非常事態に際しての中国地方の陸軍・海軍司令官に対する出兵要請権などを有していた。庁舎は千田町の広島文理科大学内に置かれた。
2 空襲への備え
中国地方総監に転出した大塚の後任の広島県知事には、大阪府次長の高野源進が就いた。高野は、すでに大阪空襲を体験しており、民防空の責任者として当然のことながら、空襲への備えの遅れに危機感を抱いていた。
当地は今日迄は空襲も比較的少なかりしも何れ近々大空襲あることと覚悟致居り候、当地は地域狭小河川多く殆んど全部木造建築にて火災発生せば如何とも致難き状況にて唯心のみあせり居り候〔「高野源進書簡」 6月20日〕
原爆投下目標となっていたがゆえに広島への空襲が禁止されていたことを県知事は知る由もなかっ たが、7月20日付の書簡では、広島に空襲がないことを「却って気味悪き様感ぜられ居り候」とし、 建物疎開1を急いだ。
中小都市の總てが焼土と化せる昨今、当広島市のみはさしたる被害も蒙らず、却って気味悪き様感ぜられ居り候、果して聞に合ふや否や不明なるも目下大々的に建物の疎開を実施中に有之候 〔「高野源進書簡」〕
もともと広島は軍都であっただけに、早くから防空演習を実施するなど防空には力を入れていたが、各都市に対する現実の空襲は当初の想定をはるかに超える大規模なものとなっていた。しかも、 軍都であるにもかかわらず未だ空襲がないことに恐れを抱いていた。それゆえ、広島への空襲はこれまでの経験の最大限規模になるというのが、当局者の想定であったようである。県警察部は、「重要地点タル広島市ノ爆撃ハ各地ニ見ラレザル激甚ナルモノト想定シ」、B29が300機襲来するという 「当時トシテハ大ゲサナ予想ノ下ニ」 対策を進めた2。また、救命・救援のため、暁部隊より 20万人分の浮き輪を併用し市民に配布するとともに、暁部隊の舟艇を各河川に配置するよう求めた。さらに、広島市空襲の場合なんらの命令なくとも広島市周辺の各警察署管内より食糧(20万人分の握り飯、40万人分の乾パン、飲料水)をトラックにて運搬するという周辺からの救援策を用意していた、という。〔石原虎好手記〕
3 行政機関の空襲対策
水主町の県庁舎は1878年建築の木造建物で、付近の建物を除却して7万坪の空地を造成していたが、耐火性に問題があった。そこで、警察部は耐火建物である広島市役所に移転し、土木部は本川国民学校へ移転した。そのほか、打越町の安芸高等女学校(調査課および農務課の一部)、袋町国民学校(衛生課)、商工経済会 (会計課の一部)、尾長町の盲学校(学務課の一部)などにも疎開した。七つの川が空襲時には天然の防火帯になることから、デルタの各島に分散することにより、空襲による全滅を避けようとしたのであろう。また、県庁(県防空本部)が空襲に罹災した場合の移転先として、市役所・本川国民学校・商工経済会・安芸高等女学校・福屋を予定していた。
その一方で、「高野知事の意向として、毎晩三百人の職員を県庁に宿泊させ、いかなる事態が発生しても、せめて県庁だけはわれわれ職員の手で守り抜こう」 と、県庁の防衛体制も 固めていた。〔『県庁原爆被災誌』177頁〕広島市でも、毎晩交代で職員60人が当直していた。市の職員には防空小区現地隊の役目もあった。市内を24の小区に分け、市職員を隊員とする防空小区現地隊を編成して、市民の避難・誘導、市との連絡にあたることになっていたのである。〔『市役所原爆誌』16,33頁〕決戦体制化であり、職員には「一死以テ職ニ殉ズルノ気魄ノ下」「各自ノ職責ヲ完遂シ、以テ決戦下ニ於ケル皇国官公吏ノ本領ヲ発揮スベシ」(5月10日大塚県知事の訓示)という心構えが求められていた。〔『県庁原爆被災誌』34-35頁〕
公文書を空襲から守ることも重要な課題であった。広島県は、高田地方事務所(高田郡吉田町)、教員保養所(佐伯郡地御前村)、広島市内の安芸高等女学校および盲学校に文書を疎開した。また、支出証拠書類などの文書は、県庁直近の防空壕に保管しており、これらの書類は原爆を生き延びた。
広島市は、戸籍簿の大部分を比治山の頼山陽文徳殿へ疎開し、文徳殿は戸籍選挙課分室となり、職員もここに出向して執務した。戸籍簿の一部と、印鑑登録簿・土地家屋台帳など事務上しばしば必要な簿冊は、市庁舎前にあった藤田ビルの疎開あとの地下室に疎開した。これらの書類は原爆を生き延びた。しかし、3階北側の文書係書庫に一括して保管していた各課の保存文書は、佐伯郡古田町田方の青年会館へ疎開する予定で、一時的に大手町国民学校に移していたところを被爆して焼失した。その他の各課の重要文書も疎開あとに残された市内各所の土蔵などを利用して納めていたが、これも焼失した。〔数野文明〕
1 警察部長石原虎好は建物疎開について、広島は外海に面していないこと 、「建物疎開方針ガ部民ノ意構ヲ尊重シ居 リタノレ為メ 」「精々立遅レノ感アリ」と後年回想している。〔「石原虎好手記」〕
2 大空襲必至の想定は、警察幹部に行き渡っていたようである。宇品警察署の富田遁夫は、被爆直前のある日の会合で、西署の松本署長がつぎのように発言したと回想している。 「広島は今まで爆撃から逃れているが、近いうちに必ず想像もつかないような大空襲があるにちがいない。そのとき、現在計画している対策は多くを期待できない。自分は “無計画の計画” ということを考えている」〔『県庁原爆被災誌』273-274頁〕