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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol3三 応急対策の実施

1 避難・救護・給付

広島市内から脱出し、あるいは搬送された避難者・負傷者は優に20万人を越えた。徒歩で脱出した者も多かったが、鉄道やトラック、船でも運ばれた。芸備線筋では庄原や東城、西部方面では大竹・岩国など遠隔地にも多数が収容された。周辺町村では、 救護所や学校などのほか民家にも割り当てて 避難者を収容した。想定外の原爆攻撃であったため、秩序だった避難誘導は不可能であり、各個人の判断による自力脱出となった。しかし、あらかじめ広島市内の各町ごとに避難先を指定していたことは、避難者の避難先選択に影響を与え、行方探しの便となった。避難者受入準備は事前に徹底されており、さらに広島市が受入先町村につぎのように依頼していたことも、受入先町村の事前の構え、避難者受入後の積極姿勢を引き出すプラス要因となったと考えられる。〔狩小川村 「庶務一件綴」〕

目下の諸情報に鑑み吾が広島市亦大空襲を受くるの公算極めて大にして今や時間の問題と推定致候、就ては本日全市民に諭告を発し決然起って国土防衛に挺身敢闘最後迄軍都死守を訓示致侯得共、不幸大避難の余儀なき事態に立至り候節は貴職並に貴町村民の御迷惑一方ならずと存候得共、予て協議決定致候罹災者避難実施要綱に基き之が収容保護に絶大なる御同情と御援助を賜り候様只管奉懇願候……

     昭和二十年三月十七日

            広島市長 粟屋仙吉

地方事務所長殿

警察署長殿

町村長殿

 

広島市は、空襲に備えて市内各国民学校など32か所の救護所および18か所の救護病院を指定していた。原爆により大打撃を受け、計画どおりの救護活動は遂行不可能な状態となったが、重傷患者が多数集結した場所が救護所と定められ、そこに救護班が配置され、自然発生的な救護活動がなされた。救護所の総数は、各種文献・手記から判明するだけで、 8月 6日当日に設けられた救護所数は、市内 99箇所(うち病院救護所16)、市外142箇所(うち病院救護所38)、 計241にのぼる。

広島赤十字病院・広島逓信病院など倒壊・全焼をまぬかれた病院では、被爆直後から救護活動がおこなわれた。各所に救護所が設けられ、たとえば本川国民学校では、陸軍の衛生隊が7日から治療にあたった。同校には 8日から9月6日にかけて、西条療養所・三次・加計・尾道・三原・竹原・因島の救護斑の来援があった。

自然発生的に開始された救護活動も、その後、軍により連絡調整が図られた。8月10日の船舶司令部 「広島救護計画」では、軍民救護機関の統制を図るため、毎日14時に戦闘司令所(市庁舎)で「令報ヲ行ヒ状況ニ即応スル運用ヲ期ス」こととした。要するに一時的に民側救護機関を軍の指揮下において統制を図ろうとしたのである。 〔「戦災記録」118頁〕

しかし、救護所のコントロールや民間人への医療は、軍の本務ではない。「戦時災害」とはいえ、救護も医療も行政もしくは民間の役割であり、軍は常態への復帰を急いだ。 9日に出された軍医部長指示では、「民収療機関再建ニ伴ヒ逐次現在ノ収療態勢ヲ軍独自ノ収療体系ニ変換スルモノトス」としている。〔同上121頁〕軍は軍人の負傷者の収容に専念するということである。こうして、 14日から船舶司令部など軍関係に収容されていた約15,000人の患者 (民間人)を、順次県が引き取ることとなった。廿日市・大竹・可部・忠海・竹原・西条・三次・庄原の各警察署に1,000人づつ、海田市・広・河内・吉田の各署に500人づつ割り当てられた。

負傷者の救護とならび瓦礫を取り除いて道路を整備する必要があった。さらに、屍体の処理という困難な課題があった。屍体の処理は、 一般民衆に及ぼす影響は重大であり、「夏季腐敗期」でもあり、 「丁重且迅速」に実施することとし、現場において火葬または土葬、できるかぎり神官僧侶を列席させ、「人名止ムヲ得サルモ柱数」を確実に調査するとの指示が出された。第一次の屍体処理は8月9日までに完了するよう命ぜられた。実際には、列席した神官僧侶は少数であった。それどころでなく、屍体を積み上げ、ガソリンを使用して焼却するなど、苛酷な屍体処理をせざるをえなかった。

軍・警察・警防団による全般的屍体処理作業は8月11日に一応終了し、以後は海中や焼跡など部分的作業が続けられた。8月20日現在までに県が把握した屍体処理数は、警察機関の処理数17,865人、軍部隊の処理数12,054人で、その他市外に避難し死亡した者3,040人であった。市内現場では火葬に付し、近親者・縁故者・市役所などに引き渡された。広島市が引き取った遺骨は、市民部保健課で遺族へ交付した。10月31日現在での授受取扱数は、受領11,525体、交付4,805体、残6,720体であった。

市役所では、当初は、庁舎も避難所と化していた。幹部を先頭に庁舎に泊り込んでの活動が展開され、救援ムスビの配給、罹災証明書の発行、尋ね人の相談、遺骨の整理、見舞金の給付などの業務にあたった。8月13日、県援護課から200万円が届けられ、見舞金として罹災者ひとりあたり県・市30円ずつ計60円を支給することになった。その後、死没者ひとりに50円の弔慰金を支給した。こうした事務は12月10日ごろまで続けられた。また、戦時災害保護法による給与金(住宅・家財・遺族・障害)の支給は、9月15日から翌年4月10日まで続けられ、件数44,569件、総額2,290万円に上った。 〔『市役所原爆誌』210頁〕

 

2 民心安定策・治安維持・情報統制

戦争をしているなかでの大被害である。当局者は、厭戦気分が広がることをくい止め、民心を安定させることに腐心した。8月7日には広島県知事告諭を出し、「仇敵ニ酬ユル道ハ断乎驕敵ヲ撃砕スルニアルヲ銘記セヨ、吾等ハアクマデモ最後ノ戦勝ヲ信ジ凡ユル難苦ヲ克服シテ大皇戦ニ挺身セム」と鼓舞した。〔「広島県知事告諭」〕

また、被害状況を過小に見せようとした。8月6目、三次地方事務所から応援にかけつけた職員は、多聞院で県知事の指示を受けたが、そのとき知事から白転車隊の応援を頼まれ、「被害の状況はあまり大きくいわないよう注意してくれ」といわれた。〔『県庁原爆被災誌』291頁〕 「戦災記録」8月8日の総軍畑元帥・警察部長懇談の箇所には、「今回ノ爆弾ニツイテハ調査中ナルモ余リタイシタモノデハナイ等ニツキ・・・懇談」との記載がある。〔「戦災記録」108頁〕

軍、とりわけ憲兵隊は空襲下での秩序維持に腐心した。8月8日午前 2時10分に中国憲兵隊司令部から出された命令(中国憲命第 3号)では、つぎのように悪質流言飛語を警戒している。〔「船舶司令部作命綴」〕

今次空襲ニ敵ノ使用セル投下弾ハ従来ノソレニ比シ威力大ナリシ為民心ハ恐怖不安ニ駆ラレ、該爆弾ノ性能ヲ過大視シ惨害甚大ヲ吹聴スルモノ、或ハ軍ノ防衛作戦ニ言及シ、甚シキハ悲観論乃至敗戦的言動ヲナシ、延テハ反軍反戦和平的希求ノ素因トナルカ如キ悪質流言飛語ノ発生ヲ予想セラルルヲ以テ、之カ取締ヲ徹底強化スルモノトス

8月12日の災害復旧対策部課長会議では、民心の安定策として、町内会・隣組の急速整備が協議されている。また、犯罪の予防、治安維持、流言蜚語の取り締まり、敗戦厭戦思想の取り締まりについても協議されている。〔「戦災記録」125-126頁〕口伝報道、壁新聞により被害状況、救護状況、当局の方針等を逐次発表するとともに、新聞(大阪等の新聞社から応援配布)、放送などにより流言防止に努めていた。〔「八月六日広島市空襲被害並ニ対策措置ニ関スル件(詳報)」〕対策が功を奏したこともあり、実際には、火事場泥棒的な事象はあったものの、恐れていたことは起こらなかった。8月21日の県知事報告には、「空襲ノ悲惨ナルヲ現認シ一時民心ハ極度ニ畏怖動遥悲観的観測ヲナスノ兆アリタルモ、時日ノ経過ト共ニ次第ニ安定、軍都復興へノ機運及驕敵撃滅ノ戦意ハムシロ昂リツゝアリタル状況ナリ」と記されている。〔同上〕

屍体の処理は、一般民衆に及ぼす影響は重大との認識もあったことは、前述したとおりである。軍と罹災民との良好な関係にも心を砕き、8月15日に出された中国軍管区司令部参謀長の指示には、「復旧処理部隊ノ軍紀風紀ノ緊縮ヲ図リ以テ官民特ニ罹災民ヲシテ信頼感謝ノ念ヲ起サシムルニ勉ムルモノトス」とある。〔「第五十九軍作命甲綴」〕

終戦の「大詔」を受けて8月20日に出された広島県の内政部長通達(各学校長宛)では、「皇国民の練成」を強調するとともに、「政府又ハ指導者ニ対スル責任追及」などといったことがおこらないよう指導することが盛り込まれた。終戦後の秩序維持を図ろうとしたことが窺える。〔『県庁原爆被災誌』123-125頁〕

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