Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol3四 行政機能の復旧
1 常態への復帰
軍が主導した戦災処理は、 8月半ば過ぎからは行政の責任において実施されることになり、 9月に入って復員が始まると、残された戦災処理は県・市が一手に負うことになった。やがて、戦災処理から戦災復興に舵をきる段階となった。戦時災害保護法に基づく救護所が2か月の期限で10月5日に閉鎖されたことも、目に見える変化であった。ただし、それは被爆者援護の切捨て、「空白の10年」の始まりでもあった。
原爆被災により停止していた行政機能を再開する必要にも迫られた。そのための体制の再構築も求められた。広島市役所では、死亡した粟屋市長に代わり森下助役が市長代理となっていたが、一日も早く後任を選ぶ必要があった。8月20日に市会が開催され、藤田一郎(藤田組会長)を選出したが、 本人の辞退により、9月29日に木原七郎(衆議院議員)を選出、本人の承諾も得られ、内務省の手続きを経て、10月22日にようやく新市長が就任した。その年の冬は、焼けただれた窓枠もない吹きさらしの市庁舎で、市役所の業務が遂行された。
県庁の常態への復帰は、後述するように執務場所の確保から始めなければならなかった。職員の確保も必要であり、とくに警察官の補充は喫緊の課題であった。そのため、解体される軍隊から補充することとなり、「大竹・呉・安浦の各海兵団、呉の飛行予科練習生約三百名余を半強制的に」警察練習所に入所させた。練習生が逃亡する「前代未聞」のことも生じたが、10月末ごろまでに700名ほどの警察官を採用し、復員、負傷者の復帰をあわせ1,748名の定員を確保することができた。〔『新編広島県警察史』679頁〕
予算編成は、常態への復帰が試される試練のひとつであった。戦災のための追加予算を上程する県参事会が8月25日に招集された。その2日前、日原内政課長は、高田地方事務所総務課長市川士郎を呼び寄せ、予算編成にあたらせた。「県職員で財政予算のわかる者は一人も生き残っていない」 という状況であったのである。 〔『県庁原爆被災誌』 144頁〕着任早々、市川は予算追加の議案草稿を作ったが、現在予算額が不明のため追加額を現予算に追加するというかたちで参事会の議決に持ち込んだ。その後、職員を参事会員の白宅に派遣し、これまでに参事会が議決した追加予算を貰い集め、9月末になって、7月現在の現計予算を知りえたのであった。〔『戦後広島県政史』 9頁〕
財政なしに県行政は回らないので、日原課長は職員の補充に奔走し、地方事務所や復員者などから人材を確保して11月ごろ予算係と税係で10人ほどの陣容となった。1946年度予算を審議する12月の県会に向け、予算編成を急いだ。そのためには、各部課から予算編成の要求資料を取りまとめる必要があったが、各部課では予算事務にあたっている者の多くは、本庁勤務で外勤の少ない職員であるため、原爆で多数死亡しており、予算事務を知っている職員は少なかった。しかも、予算編成のための基礎資料を失っており、さらには、自己所属の現在予算も不明な部課もあった。結局、資料を収集したり、各職員の記憶等を求めて探り足で編成せざるをえなかった。〔同上〕
1944年度の決算の調整には、 「会計書類簿冊の殆んどを焼失したため此の決算書の調整は一通り二通りの労苦ではなかった。原爆症に悩む係員を呼びだしたり……焼失をまぬかれた書類等により兎に角く原稿を作り得たが……」と、文字通り「困惑」 したのである。〔同上26頁〕
前述したように、疎開などで一部の文書は焼失をまぬかれ、やがて常態復帰ととも に疎開先から運び込まれ利用することができた。しかし、文書のほとんどを失ってしまったため、たちまちの業務にも差支えることは明白で、8月18日の部課長会議で「従来ノ指示通牒等ヲ他府県ヨリ取リ寄セルコ ト」 と申しあわす状況であった。〔「戦災記録」137頁〕
職員が執務するための事務機器、用品をそろえる必要もあった。担当職員の苦労話には、職員「一丸となって東奔西走、・・・・・・その結果、転用品、疎開品等の蒐集により一時的ではあるが僅かな破れた机、椅子にもたれて事務を開始することが出来たのである。」 「広島市附近に於ては県の要求する物品を購入する事は不可能であり、他県にこれを求むれば乱造品で使用に堪えないものが多くあると云う状態で各課よりの用度課に対する非難は相当なものがあり・・・・・・」と。〔『戦後広島県政史』 25頁〕
印刷関係の復旧を命じられた児玉秀一(のち広島県印刷局長、県議会議長)は、陸軍被服補給廠が疎開させていた印刷機と人員を引き取り、大竹の潜水学校の鋳造機を持ち帰った。事務用品については、海田の需品廠から県庁に必要な事務用品を持ち帰った。運送に必要なトラックは陸軍被服補給廠から転用を受けた、などと回想している。〔『戦後五十年広島県政のあゆみ』 282頁〕
土木部は本川国民学校に疎開していたこともあり、土木職員の大部分を原爆で失った。そこへ9月17日、広島県としては未曾有ともいうべき台風災害に見舞われた。災害復旧計画は、他県の職員の応援により作成された。〔『戦後広島県政史』 85頁〕土木部都市計画課では、職員20人余のうち10人が死亡、残りの全員が重傷で、元気で残ったのは軽傷の竹重貞蔵課長と出張中の数人に過ぎなかった。広島の復興計画立案を前に、数少ないスタッフでのスター トとなった。〔『戦後五十年広島県政のあゆみ』284頁〕
2 庁舎の移転
通常業務への復帰をはかるためには、東警察署の仮県庁から適当な建物に移転する必要があった。8月16日、移転候補として、東洋工業と日本製鋼所を視察した。前者は被害なく調度も十分で駅に近い、後者は相当な被害があり駅から遠い、との結果であった。翌日、東洋工業から貸付の同意が得られた。8月20日、県庁は安芸郡府中町の東洋工業に移転した。このとき、「課員の机椅子もないと云う有様で旧軍需物資の転用を受けたり、各方面より借り集めにより辛うじて事務の運営をして来た」という。〔『戦後広島県政史』 26頁〕
前述の市川士郎の回想では、8月23日に県庁からの使いがあり、その日のうちに東洋工業内の県庁内政課を訪れた。聞に合わせの長机や長腰掛等が置いてあったが、自席と決められた所を持たない職員は、不在職員の場所で仕事をしていたが、日々出勤する職員も少数であった。交通機関が復旧していないため、朝は遅く来て、帰りが遅くなれば、机の上に寝るような始末であった。〔同上 9頁〕
こうした状況で冬を越し、昭和21年度を迎えるころ、自前の庁舎の建設にとりかかるようになった。最初に、県庁舎をバラックで建築する計画を考えたところ、建築費600万円、5年もすれば使用できなくなる、ということであった。そこで、残された軍用財産である陸軍兵器補給廠を県庁に改造できないか研究した。原爆にさらされたままになっていた兵器補給廠の倉庫は屋根や窓が破壊され、これを補修することは莫大な経費がかかり、使い物になるまいと恩われた。とこ ろが、比較的安価で修理できるとの見込みが立ったので、晩春ころから突貫工事で修理にあたり、工事の出来上がったところから移転を開始した。〔同上10頁〕移転告示は 6月20日である。
そのほかの県立学校や県有建物の復旧については、「県立学校生徒は青天井のもとで学び雨雪の際は休校の止むなきに至る等、行政並びに教育上一大痛撃を受けたのである。これが早急なる復旧計画を樹て、翌昭和二十一年早々何分急施を要するためと予算及び資材その他の関係上、初期においては応急的バラック建をもって辛じて行政並びに教育を続け、昭和二十二年度より本建築に着手したが初期における建物は壁は板張りにして窓はガラスもなく紙を貼っていた状態であったが、爾来三ヶ年各庁各校共漸次復旧してきた。」 〔同上83頁〕
県庁が兵器補給廠の倉庫に移転して、ようやく自前のスペースを確保できたのであるが、南海地震で建物に亀裂を生じており同規模の地震に見舞われれば崩壊する恐れがあること、建物は8棟に分かれ渡り廊下もなかったこと、倉庫を改造したものであるため常時点灯する必要があること、交通の便が悪いことなどから、市中央部に庁舎を新築する必要に迫られていた。〔同上84頁〕しかし、引き続く県財政窮乏のなかで、容易には実現しなかった。新県庁が落成するのは1956年4月19日のことで、原爆投下から10年以上の歳月を要したのである。〔『戦後五十年広島県政のあゆみ』91頁〕