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国際平和拠点ひろしま

ローマ教皇 平和メッセージ

「平和の集い」 於:広島平和記念公園 令和元年 11 月 24 日(日)

ローマ教皇 平和メッセージ(仮訳) 「わたしはいおう、わたしの兄弟、友の ために。『あなたのうちに平和があるように』」(詩編 122・8)。

あわれみの神、歴史の主よ、この場所か ら、わたしたちはあなたに目を向けます。 死といのち、崩壊と再生、苦しみと憐憫の 交差するこの場所から。

ここで大勢の人が、その夢と希望が、一 瞬の閃光と炎によって跡形もなく消され、 影と沈黙だけが残りました。一瞬のうちに、 すべてが破壊と死というブラックホールに 飲み込まれました。その沈黙の淵から、亡 き人々のすさまじい叫び声が、今なお聞こ えてきます。生まれた場所はさまざまで、 それぞれの名をもち、なかには、異なる言 語を話す人もいました。そのすべての人が、 同じ運命によって、このおぞましい一瞬で 結ばれたのです。その瞬間は、この国の歴 史だけでなく、人類の顔に永遠に刻まれました。

ここで、すべての犠牲者を思い起こした いと思います。また、あの時を生き延びた かたがたを前に、その強さと誇りに、深く敬意を表します。その後の長きにわたり、 肉体の激しい苦痛と、心の中の生きる力を むしばんでいく死の兆しを忍んでこられた からです。

わたしは平和の巡礼者として、この場所を訪れなければならないと感じていました。 あのすさまじい暴力の犠牲となった罪のない人々を思い起こし、現代社会の人々の願 いと望みを胸にしつつ、じっと祈るためで す。とくに、平和を望み、平和のために働 き、平和のために自らを犠牲にする若者た ちの願いと望みです。わたしは記憶と未来 にあふれるこの場所に、貧しい人たちの叫 びも携えて参りました。貧しい人々はいつ の時代も、憎しみと対立の無防備な犠牲者 だからです。

わたしは謹んで、声を発しても耳を貸し てもらえない人たちの声になりたいと思い ます。現代社会が置かれている増大した緊 張状態、人類の共生を脅かす受け入れがた い不平等と不正義、わたしたちの共通の家 を保護する能力の著しい欠如、あたかもそ れで未来の平和が保障されるかのように行 われる継続的あるいは突発的な武力行使を、 不安と苦悩を抱いて見つめる人々の声です。

確信をもって、あらためて申し上げます。 戦争のために原子力を使用することは、現 代においては、これまで以上に犯罪とされ ます。人類とその尊厳に反するだけでなく、 わたしたちの共通の家の未来におけるあら ゆる可能性に反する犯罪です。原子力の戦 争目的の使用は、倫理に反します。核兵器 の保有は、それ自体が倫理に反しています。 それは、わたしがすでに 2 年前に述べたと おりです。これについて、わたしたちは裁 きを受けることになります。次の世代の 人々が、わたしたちの失態を裁く裁判官と して立ち上がるでしょう。平和について話 すだけで、国と国の間で何の行動も起こさ なかったと。戦争のための最新鋭ですさま じい兵器を製造しながら、平和について話 すことなどどうしてできるでしょうか。差 別と憎悪のスピーチで、あのだれもが知る偽りの行為を正当化しておきながら、どうして平和について話せるでしょうか。

平和は、それが真理を基盤としていない なら、正義に従って築かれないなら、愛に よって息づき完成されないのなら、自由に おいて形成されないのなら(聖ヨハネ 23 世 回勅『パーチェム・イン・テリス――地上 の平和』37〔邦訳 20〕参照)、単なる「発 せられることば」に過ぎなくなる、わたし はそう確信しています。

真理と正義をもって平和を築くとは、 「人間の間には、知識、徳、才能、物質的 資力などの差がしばしば著しく存在する」 (同 87〔同 49〕)のを認めることです。 ですから、自分だけの利益を求めるため、 他者に何かを強いることが正当化されてよ いはずはありません。その逆に、差の存在 を認めることは、いっそうの責任と敬意の 源となるのです。同じく政治共同体は、文 化や経済成長といった面ではそれぞれ正当 に差を有していても、「相互の進歩に対し て」(同 88〔同 49〕)、すべての人の善 益のために働く責務へと招かれています。

実際、より正義にかなう安全な社会を築 きたいと真に望むならば、武器を手放さな ければなりません。「武器を手にしたまま、 愛することはできません」(聖パウロ 6 世 「国連でのスピーチ(1965 年 10 月 4 日)」 10)。武力の論理に屈して対話から遠ざか ってしまえば、武器は、それが犠牲者と廃 墟を生み出す前にすら悪夢をもたらしうる ことを、悲しくも忘れてしまうのです。武 器は「膨大な出費を要し、連帯を推し進め る企画や有益な作業計画が滞り、民の心理 を台なしにします」(同 5)。紛争の正当 な解決策として、核戦争の脅威による威嚇 をちらつかせながら、どうして平和を提案できるでしょうか。この苦しみの深淵が、 決して越えてはならない一線に気づかせて くれますように。真の平和とは、非武装の 平和以外にありえません。それに、「平和 は単に戦争がないことではなく、……たえ ず建設されるべきもの」(第二バチカン公 会議『現代世界憲章』78)です。それは正 義の結果であり、発展の結果、連帯の結果 であり、わたしたちの共通の家の世話の結 果、共通善を促進した結果生まれるものな のです。わたしたちは歴史から学ばなけれ ばなりません。

思い出し、ともに歩み、守る。この三つ は、倫理的命令です。これらは、まさにこ こ広島において、よりいっそう強く、より 普遍的な意味をもちます。この三つには、 平和となる道を切り開く力があります。で すから、現在と将来の世代に、ここで起き た出来事の記憶を失わせてはなりません。 より正義にかない、いっそう兄弟愛にあふ れる将来を築くための保証であり起爆剤で ある記憶、すべての人、わけても国々の運 命に対し、今日、特別な役割を負う人たち の良心を目覚めさせられる、広がる力のあ る記憶、これからの世代に向かって言い続 ける助けとなる生きた記憶をです。― 二 度と繰り返しません、と。

だからこそわたしたちは、ともに歩むよ う求められているのです。理解とゆるしの まなざしで、希望の地平を切り開き、現代 の空を覆うおびただしい黒雲の中に、一条 の光をもたらすのです。希望に心を開きま しょう。和解と平和の道具となりましょう。 それは、わたしたちが互いを大切にし合い、 運命共同体で互いが結ばれていると知るなら、必ず実現可能です。現代世界は、グロ ーバル化で結ばれているだけでなく、共通の大地によっても、いつも相互に結ばれて います。共通の未来を確実に安全なものと するべく、責任をもって闘う偉大な人とな るために、それぞれのグループや集団が排 他的利益を後回しにすることが、現代にお いてこそ求められています。

神に向け、すべての善意の人に向けて、 一つの願いとして、原爆と核実験とあらゆ る紛争のすべての犠牲者の名によって、心 から声を合わせて叫びましょう。戦争は二 度と繰り返しません、兵器の轟音は二度と 繰り返しません、こんな苦しみは二度と繰 り返しません、と。わたしたちの時代に、 わたしたちのいるこの世界に、平和が来ま すように。神よ、あなたは約束してくださ いました。「いつくしみとまことは出会い、 正義と平和は口づけし、まことは地から萌 えいで、正義は天から注がれます」(詩編 85・11-12)。 主よ、急いで来てください。破壊があふれ た場所に、今とは違う歴史を描き実現する 希望があふれますように。平和の君である主よ、来てください。わたしたちをあなた の平和の道具、あなたの平和を響かせるものとしてください。

「わたしはいおう、わたしの兄弟、友の ために。『あなたのうちに平和があるよう に』」(詩編 122・8)。

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