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国際平和拠点ひろしま

平和記念公園Q&A

原爆による犠牲者を慰霊するため、世界中から多くの人が訪れる「平和記念公園」。

訪れた人の中には、現在の美しく整備された様子を見て、「原爆が落ちたときも公園だった」と思っている人もいるようです。平和記念公園が、いったいどんな歴史を持ち、どんな場所なのか、過去の記事と合わせて見直してみましょう。

Q.平和記念公園はどんな場所なの

A. 原爆死没者の慰霊と世界の恒久平和を願って整備された都市公園です

 平和記念公園は、広島市の中心部、旧太田川(本川)と元安川に挟まれた三角州の最上流部に位置します。

 この辺りには、かつて多くの人々が行き交う繁華街がありました。しかし、1945年8月6日、一発の原子爆弾によって街は一瞬のうちに破壊されました。

 その後、爆心地周辺を恒久平和の象徴の地として整備するため平和記念公園と施設の建設が進められ、1955年に完成。

 現在公園内には、世界遺産に登録されている「原爆ドーム」や原爆投下当時の広島の様子を展示した「広島平和記念資料館」、「原爆死没者慰霊碑」、「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」、「広島国際会議場」、また数々の慰霊碑やモニュメント、被爆アオギリなどがあり、多くの人が訪れ、祈りを捧げています。 

 毎年8月6日に開催される平和記念式典(広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式)の会場です。

Q.被爆前平和記念公園周辺はどんな場所だったの?

A. 「中島地区」と呼ばれる広島随一の繁華街があり、多くの人が生活していました

原爆が投下された直後、現在の平和記念公園の周辺は、崩れ果てた原爆ドームとレストハウスなどわずかな建物を残し、焼け野原となってしまいました。しかし原爆投下直前まで、この辺りは「中島地区」と呼ばれる広島随一の繁華街で、たくさんの人々が行き交い、多くの人々が暮らしを営んでいました。商店や旅館、民家、寺院、さらに映画館や洋食屋が並び、大いににぎわっていたそうです。

戦況が厳しくなると、住人の疎開や物資不足が原因でそのにぎわいにかげりがあったとは言われていますが、それでもまだ多くの人の生活がこの街にはありました。映画『この世界の片隅に』の中でも、中島地区の様子がしっかりと描かれています。

被爆前の中島地区の様子(野口巖氏提供、「広島平和記念資料館」所蔵)

被爆前の中島地区天神町筋の様子(三田茂氏提供、「広島平和記念資料館」所蔵)

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「この世界の片隅に」ロケ地巡り
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被爆時の町と人々の暮らしを教えてくれる 「被爆遺構展示館」
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Q. 原爆ドームは何の建物だったの?

A. 大正初期に建てられた洋風の建物で、さまざまなイベントが行われていました

 公園内の北側に位置し、広島で最も有名な建造物「原爆ドーム」。大正初期に建てられた、銅板葺きの楕円形ドームを頂くレンガ造り3階建ての洋風建築物で、原爆投下前は「広島県産業奨励館」の名で、広島県内の物産を陳列したり博覧会や美術展なども開催される建物でした。しかし、第二次世界大戦末期には、イベント会場としての機能は排除され、国などの行政機関の事務所として利用されました。

 あの日、原子爆弾は産業奨励館から約160mの至近距離でさく裂。産業奨励館は爆風と熱線を受けて大破し、天井からは火を吹いて全焼。建物の中にいた人たちは全員が即死しました。

 戦後、鉄骨がむき出しとなった姿は、いつしか広島市民の間で「原爆ドーム」と呼ばれるようになりました。現在もほぼ被爆した当時のままの姿で核兵器による惨禍を訴えています。

 1996年、世界文化遺産に登録されました。

【関連記事】

原爆ドームの歴史
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建物コラム③「原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)」
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Q平和記念公園は誰が設計したの?



A建築界の巨匠・丹下健三氏が手掛けました

 平和記念公園一帯と広島平和記念資料館の設計は、東京都庁をはじめ、日本各地の素晴らしい建築物を手掛けた日本が世界に誇る建築家の一人、丹下健三(たんげ・けんぞう)によるものです。1913年、大阪の生まれですが、戦前期の広島で学生生活を送り、広島に縁のある人物でもありました。鎮魂と平和への祈りが込められ、原爆ドームや原爆死没者慰霊碑、平和記念資料館を直線上に並ぶよう設計されています。

 また平和記念公園の南東にかかる「平和大橋」の欄干は、日本人とアメリカ人を両親に持つ世界的な彫刻家イサム・ノグチ氏によるもの。丹下氏からデザインを依頼されたノグチ氏は、その熱意によって日本とアメリカの架け橋となるデザインを生み出しました。

【関連記事】

建物コラム①「広島平和記念資料館」
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Q. 公園内には被爆した樹木は残っているの?

A. 実際に被爆した樹木も移植されていて、力強く生き続ける姿で人々に勇気を与えています。

 原爆が投下された後、「広島には今後75年、草木も生えないだろう」と言われたほど、その惨状と放射線の影響はすさまじいものでした。しかし、広島市内には原爆に遭ってなお、たくましく生き続ける被爆樹木があります。

 残念ながら平和記念公園がある中島町は、爆心地から近すぎたため、生き残った樹木はありませんでしたが、2種の被爆樹木が平和記念資料館東館の北の平和記念公園内に移植されました。爆心地から1300mで被爆した2本のアオギリと、2200mで被爆したインドハマユウです。青々と茂る枝葉やその姿から、困難に遭ってもなお力強く生き続ける勇気をたくさんの人に与えています。

被爆樹木の物語を 多くの人に伝えたい
https://hiroshimaforpeace.com/sharing-the-story-of-a-bombed-trees-with-as-many-people-as-possible/

木に会いに行く~広島から世界へ被爆樹木を~
https://hiroshimaforpeace.com/sending-trees-that-survived-atomic-bombing-from-hiroshima-to-the-world/

平和記念公園

住所: 広島市中区中島町1及び大手町1-10

入園料: 無料

休園日: 無休

開園時間: 常時

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