記録として残す平和
ヒロシマを撮り続けるフォト・メッセンジャー
平和記念式典やとうろう流し、平和団体の集会、スポーツ親善大会など、平和にまつわるあらゆる催しが年中開かれている広島市。そんな行事ごとに寄り添うようにして、約30年間シャッターを切り続けているのが、カメラマンの長谷川潤(はせがわ じゅん)さんです。
写真に出合ったのは、長谷川さんがまだ小学生だった頃。担任の先生が、撮った児童の写真を学校で現像しており、その手伝いをした際に「紙の上に切り取った景色が浮かび上がってくるのが面白い」と感じたそうです。
「写真の道に進みたい」と早くから思っていたものの、幼少期に患った病気が原因で体に障がいが残ってしまい、写真家である秋山庄太郎(あきやま しょうたろう)氏に「写真の道に進むのは難しいのでは」と反対を受けたともいいます。しかし、日本を代表する写真家である林忠彦(はやし ただひこ)氏に勧めてもらったことや、いとこが趣味で写真を撮っていたこともあり、周りに教えてもらいながら自分なりに挑戦。17歳の時には最年少で県美展に入選し、晴れて写真の道に進むことになります。
高校卒業後は大阪芸術大学に進学。写真学科に在籍し、岩宮武二(いわみや たけじ)氏や林忠彦(はやし ただひこ)氏や三木淳(みき じゅん)氏といった、日本を代表する写真家に師事する幸運な機会にも恵まれたそうです。また、写真や歴史、政治に関するものなど、興味のある分野の本を1週間に2冊読むことを自分に課し、知識の幅を広げたといいます。その後は大学に助手として残り、非常勤講師も兼任。半分はフリーカメラマンのような立ち位置で、依頼のあった写真を撮影したり、教鞭を執っていました。大学を離れたのちにカメラマンとして独立。芸能やスポーツを中心に撮影を手掛け、写真の道で生計を立ててきました。
平和をテーマにした写真を撮るようになったのは、あるテレビ番組で、被爆女性を撮影し続けていた大石芳野(おおいし よしの)氏や土田ヒロミ(つちだ ひろみ)氏、林重男(はやし しげお)氏と共演したことがきっかけ。「いずれはヒロシマを撮りたい」という思いもずっと持っていたため、平和をテーマにした写真撮影を行うようになったそうです。
時には広島の歴史について熱心に調べる新聞記者と共に、被爆地や被爆者のもとを訪れ、知見を広げました。さらに、アメリカに住む日本人の戦争花嫁や、中国残留孤児などを撮り続けてきた写真家・江成常夫(えなり つねお)氏と出会い、氏のもとで学ぶようになってからは、「報道写真とはこういうものだ。自分にこのような写真は撮れない。記録写真に徹しよう」と感じたのだといいます。
著名なカメラマンたちが自身に大きな影響を与えてくれたと語る長谷川さん
縁あって、ずっと撮りたいと願っていたマザー・テレサの撮影をすることができた時は、彼女が以前から口にしていた「原爆ドームの内部がどうなっているのか見たい」という希望を叶えたいと思い、原爆ドームを内側から撮った写真を持参したそうです。そんな長谷川さんに対して、マザー・テレサは「お互いに、自分のできる範囲で平和をつくっていきましょう」と、言葉をかけたといいます。
©2024 長谷川 潤
長谷川さんが長年、撮影することを熱望したマザーテレサ
「平和をテーマに撮ってきた写真は、ほとんどどこにも出していません。撮りためてきた作品は、いずれは市に寄贈したいです」と話す長谷川さん。「お世話になった周りの人たちに、写真で恩返しできればと思います」。また、今後の夢として、平和を撮り続ける若い写真家が育ってくれたらとも願っているそうです。
「現代の若い人たちは、十分な平和学習を受けていると思いますが、ある意味画一的な教育でもあると感じています。自分の足で平和を探求し、自分の頭で平和とは何かを考え、自分なりの答えを見つけてほしいと思います。与えられた情報をただそのまま受け取るのではなく、たくさんの本を読んで、歴史を学んでほしいです」と、エールを送ってくれました。
長谷川潤(はせがわ じゅん)
1957年、広島市生まれ。大阪芸術大学などで写真を学び、1986年に帰郷。フリーのカメラマンとして活躍。自らを“フォト・メッセンジャー”と位置付け、広島で平和にまつわる行事や出来事を写真に撮り続けている。JPA・日本写真作家協会創立会員、JPCA・日本写真著作権協会創立会員、核の国際写真家集団ギルドのメンバー。
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