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国際平和拠点ひろしま

広島のお好み焼の歴史とソースメーカーの取り組み:おこのミュージアム

2025年に被爆80年を迎える広島。2度と原爆の悲劇を繰り返さないという平和への想いは、企業の活動にも広がりを見せています。
そんな企業の取組を複数回に分けて紹介していきます。


三回目は、広島の老舗ソースメーカーであるオタフクソース株式会社が、広島のお好み焼の歴史を伝える「おこのミュージアム」。

館長の新本顕三(にいもと けんぞう)さんにミュージアムに込めた想いをお伺いしました。

どこか懐かしさの漂う自宅兼お好み焼屋の再現スペースが訪問者を出迎えてくれるミュージアム。広島のお好み焼の歴史やソースについて、わかりやすい展示がされており、出る頃にはいっぱしのお好み焼博士になった気分になります。


「ソースメーカーですが、まずはお好み焼の魅力を知っていただきたいという気持ちからできたミュージアムです。」

ミュージアムで最初に目にする、1950年代のお好み焼屋の再現スペース

おこのミュージアムがある「Wood Egg (ウッドエッグ) お好み焼館」は2008年にオープン。ミュージアムの他、来館者がお好み焼づくりを体験できる場所と開業希望者を支援するための研修センターで構成されています。もとは、営業など総務系の事務所と、地元のお好み焼屋を開業される方のための研修センターでした。建物が老朽化し、建替の話が持ち上がったのがきっかけでした。

「研修センターは、ソースメーカーとしてお好み焼市場の発展に寄与したいという想いでできました。会社として大事な場所であるため建替の話の時も、まず研修センターをどうしようかという話になったんですよね。せっかくならお好み焼の文化の発信と工場見学ができる、面白い場所にしようよ、ということになり、今の形になりました。」

2008年に開館した「Wood Egg お好み焼館」

このお好み焼とソースの切っても切れない関係性は、原爆により街全体が焼け野原になった広島の、復興に向けた歩みが深く関わっています。

お好み焼の原型は、大正時代に広まった子供向けの駄菓子「一銭洋食」。戦中は一時的に姿を消しましたが、戦後の広島に海外から救護物資として送られてきた小麦粉と、重工業が盛んなことで鉄板が豊富だった環境下で、再注目を浴びました。それが徐々に、大人でもおなかが満たされるように改良され、現在のお好み焼の姿に。ビアホールなどがあった広島の繁華街(現在のお好み村付近)でお好み焼の屋台が増えていきました。

当時の屋台の様子

オタフクソース株式会社(当時:佐々木商店)は1922年に創業後、1938年から酢作りを開始。原爆で住居兼醸造所が全壊し、一時モノづくりができなくなりましたが、翌年から酢作りを再開。ソースの製造は1950年頃開始したそうです。当初ソースメーカーとしては後発でしたが、多くのお好み焼屋に営業する中で、お好み焼にさらさらしたウスターソースをかけると、すぐに鉄板に流れ落ちてしまうという問題点に着目。お好み焼店のお困りごとを解決するソースを作ろうと、お店の協力を得ながら試作を続け、現在のとろみのあるソースが誕生しました。

 

「まさにお好み焼屋さんと二人三脚でつくり上げたソースなんです。」

 

ミュージアムではウスターソースとお好みソースの違いも展示

今では年間1万8000人~9000人程度が来場します。
「意外と地元の方でも、ミュージアムの展示を見て、『こんな歴史があったんだ』と意外と驚かれたりしますね。」
今後も一人でも多くの人に来てもらい、戦後復興の中で生まれたお好み焼の歴史と魅力を知ってほしいといいます。

最後に、新本さんにとっての平和について聞いてみました。

 

 

「私の4人の祖父母のうち3人は原爆で亡くなり、父親は身寄りがないため親戚を回るなど相当苦労したそうなんです。そんな両親の苦労を思い、自分のことを考えると、原爆ってそんなに昔のことでもないなと。だからこそ原爆の事実を伝えなきゃいけないと思います。
普段の生活でご飯をおいしく食べれるようなこと。それが平和だと思うんですよね。」

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