2025年に被爆80年を迎える広島。2度と原爆の悲劇を繰り返さないという平和への想いは、企業の活動にも広がりを見せています。
そんな企業の取組を複数回に分けて紹介していきます。
四回目は、広島の新しいサッカースタジアムにある「広島サッカーミュージアム」。
地元のサッカーチーム株式会社サンフレッチェ広島のスタジアムビジネス部長である森重圭史(もりしげ けいじ)さんに、込めた想いをお聞きしました。
白い翼のような外観が特徴のサッカースタジアム「ピースウィング広島」。2024年2月に開業後、街の新たな賑わいを生み出しているこの新ランドマークの一階にミュージアムがあります。
「あえて、『サンフレッチェ広島ミュージアム』ではなく『広島サッカーミュージアム』にしています。」
そこには、広島の原爆と復興におけるサッカーと街のつながりを知る場にしたいという想いがこめられています。
森重さんは、2023年4月に30年以上勤めていた企業での新店舗の企画・設計などの経験を買われ、サンフレッチェに参画。ミュージアムづくりを担当しました。
「最初は300坪もあるミュージアムをどう作っていくか迷いました。でも広島のサッカーの歴史を見れば見るほど、これは中途半端にやってはいけない、と思ったのです。」
広島とサッカーには古い関わりがあります。1888年に海軍兵学校が東京築地から江田島に移転され、広島での本格的なサッカーの普及が始まっており、1919年には、当時では珍しい国際試合も実施されたそうです。
原爆で多くのサッカー少年が被爆し、原爆症で苦しめられる中、被爆からわずか2年後の1947年に広島高等師範学校附属中学校(現広大附高)蹴球部が全国大会で優勝。広島市民に多くの喜びと希望をもたらし、復興への活力を与えました。
「元サンフレッチェ広島総監督の今西和男さんなどにも当時の話を聞いた際、『サッカーをするときだけ原爆を忘れることができた』とおっしゃられていました。辛い生活の中、一人になるのが怖かった。だからみんなで夢中になれるサッカーに打ち込んでいたそうです。」
ミュージアムは主に、①サッカーと広島の歴史がわかるゾーン、②サンフレッチェ広島について学べるゾーン、③サッカーの体験ができるゾーン、の3つで構成されています。平和記念資料館の展示を担当した会社が参画しているため、展示手法には平和記念資料館とのつながりを感じることができます。
「広島のサッカーには、人のドラマがたくさん詰まっています。この、人の想いが紡がれていくということ、何かに打ち込んでいる人を応援したくなる、ということをどう表現するかにこだわりました。平和記念資料館が原爆の悲惨さを訴える場だとしたら、ここは原爆からの復興、人やスポーツの力が表現されたところです。」
週末には家族連れやサッカーの観客が訪れており、SNSではミュージアムを通して広島の歴史と平和への願いに対する共感した人々の投稿も見られます。
「来場頂いた多くの方々が、広島とサッカーのつながりや復興について理解を深めてくれていると感じています。私たちもミュージアムを運営する事で、先人達の想いをひしひし感じます。その想いを今後も伝えていきたいです。」
最後に森重さんにとっての平和について聞いてみました。
「世界の情勢を見て、自分の置かれている今の平和が守られていることに気づかされます。日々何も考えずに生きていたら、その延長線上には平和がないかもしれない。平和という日常が持続可能になるために何ができるのか、考え続けたいです。」
「へいわ創造プラットフォームひろしま」
株式会社サンフレッチェ広島さんは、広島を基点として、企業,経済団体、NGO・NPO,任意団体など様々な主体が参画する「へいわ創造プラットフォームひろしま」に参画されています。 登録されると、このサイトを通じてSDGsや平和の取り組みを発信することができるほか、平和の取組の情報収集や共有を図ることができます。
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