「三度(みたび)許すまじ原爆を、世界の町に」 ヒロシマを語り継ぐ教師の会・梶矢 文昭さん
遠くは似島、その手前には高層ビルや緑豊かな平和公園、数多くの史跡が点在する武田山。そんな穏やかな風景の前で、一枚の絵を持って立つのは「ヒロシマを語り継ぐ教師の会」の梶矢文昭さんです。真っ赤に塗られたその絵は、梶矢さんが描いたあの日の広島の街の様子。「広島が燃え上がっとった。広島が真っ赤に燃えとった」。この絵を使った紙芝居でヒロシマを語り継ぐ梶矢さんに、ご自身の被爆体験や子どもたちに伝えたい思いなどを伺いました。
昭和20年8月6日の朝、広島駅の近くにあった荒神町国民学校1年生だった私は、二つ上の姉と一緒に分散授業所に行きました。掃除に取り掛かったころ、あたり一面を光がピカー!と覆い、次にズドーン! 熱線と爆風で建物は一瞬にして潰れ、私は下敷きになりました。崩れた建物の下から何とか抜け出し、逃げて逃げて山にたどり着きました。そこから見下ろした広島の街は、真っ赤に燃え上がっていました。夕方までごうごうと燃えとったんです。
夕方になって家族を探しに山を下り、広島駅の北側にあった東練兵場に行きました。そこは、普通の人相じゃない人たちで埋め尽くされていました。「水をくれ、水をくれ」という声がすごかった。でも6歳の私にはどうすることもできませんでした。飼い主を探す犬がうろうろしていたのも覚えています。
偶然にも、私はその日のうちに両親と再会できました。でも朝まで一緒だった姉は死んでいました。姉は当時、現在の北広島町(広島県)の親戚の所に縁故疎開していましたが、着替えなどを持って行った母に「連れて帰って。うちゃ死んでもええ、死んでもええからお母さんと一緒がええ」と訴えたそうです。諭されて一旦は諦めた姉ですが、広島に帰る母が乗るバスを泣きながら追いかけてきたんだそうです。その姿を見かねた母が「死ぬときゃ一緒に死のう」と、8月2日に広島市内に連れ戻っていたところに、原爆が落とされました。
母は8月6日になるといつも泣きました。娘を死なせてしまったと……。母も体中にガラス破片が50、60と突き刺さり、眼球にも刺さるほどの傷を負っていましたが、94歳まで生きてくれました。頑張ってよう生きたと思います。母と子が一緒にいることすら、命がけの時代だったんですね。
私は運よく生き残り、昭和30年代に広島で小学校の教員になりました。被爆体験を何らかのかたちで子どもたちに伝えたいとは思っていましたが、当時の学校での平和教育は、組合(日本教職員組合)が中身を考えて講演するというイデオロギー的なもので、校内に被爆者の教員がいても、証言する場はありませんでした。
時代と共に、広島市の平和教育の方針が変わっていきました。私が長束小学校の校長になった平成6年、職員から「子どもたちに被爆体験を話してほしい」という声が上がったんです。そこで1~6年生まで、特に低学年に伝えやすくするために、絵を描いて話しました。小学生500、600人が相手ですから、後ろの児童にも見えるように大きな画用紙にパステルで描きました。それが私が紙芝居で被爆体験を伝えるようになったきっかけです。最初に描いたのは、姉が死んでいたシーン。絵を少しずつ追加して、今も使い続けています。
やはり体験した人が直接話すということに意味があると感じ、定年後に勤めていた広島市教育委員会での嘱託勤務を終えた平成13年、「ヒロシマを語り継ぐ教師の会」を組織しました。以来、登録メンバーの被爆者が、子どもたちへ被爆体験を直接伝えています。幼稚園や低学年には、身振り手振りを大きくして、高学年にはより具体的に、日本が戦争に至った経緯や核爆弾の被害なども解説しています。私の語りは45分程度ですが、子どもたちはよく聞いてくれますね。
紙芝居にも描いていますが、「三度許すまじ原爆を、世界の町に」というメッセージを伝えています。これは昭和25年くらいまで広島市民がよく歌っていた歌の一部です。もともと「三度許すまじ原爆を われらの街に」という歌詞ですが、私は「世界の町に」と変えています。
今、いくつもの国が核を持ち、世界におよそ1万3000発の核があるといわれています。それは持っているけど使ってはいないということ。世界の平和は緊張のバランスの中で保たれているのです。現代の原子爆弾が広島に落とされたとしたら、その被害は半径200㎞に及ぶといわれています。中国地方はもちろん、被害は四国や九州の一部におよび、灰の被害を考えると、2・3発落とされると日本には逃げる場所はなくなるでしょう。使われたら使い返す、そんな世界になれば人類の存続どころか、地球は滅びてしまいます。持っている核をなくすことは早急には難しい。だから、核を使うことは許さないということを、世界で申し合わせることが大事だと思います。
三度目は許しちゃいけんのです。それを一人でも多くの子どもたちに伝えていきたい。そして彼らが大人になったとき、自分の子どもに伝えてくれることを願っています。
梶矢 文昭(かじや・ふみあき)
昭和14年、広島市生まれ。小学1年生のときに広島駅の近くで被爆。昭和37年から広島市で小学校教諭や校長を務める。平成11年3月に定年退職。嘱託職員を経て、平成13年に「ヒロシマを語り継ぐ教師の会」を発足し、事務局長に就く。
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