当サイトを最適な状態で閲覧していただくにはブラウザのJavaScriptを有効にしてご利用下さい。
JavaScriptを無効のままご覧いただいた場合には一部機能がご利用頂けない場合や正しい情報を取得できない場合がございます。

国際平和拠点ひろしま

「神の島」に密かに残る砲台跡を訪ねて
〜宮島の戦争遺構〜




推古天皇御即位の年(592年)に創建されたと伝えられる嚴島神社を有し、「神の島」として崇められてきた宮島。国内外から多くの観光客が訪れるこの島に、実は砲台跡などの軍の遺構が存在していることは、あまり知られていません。

その理由を、宮島地区パークボランティアの会の中道勉(なかみち つとむ)さんはこう話します。

「1889(明治22)年に呉に海軍の鎮守府が開設され、日清戦争が始まった1894(明治27)年には天皇直属の最高統帥機関である大本営が広島に置かれました。これらを敵の軍艦から守るために、いち早く敵の軍艦を見つけられる宮島に砦や砲台が作られたのです。当時、砲台などの施設は軍事機密ですから、どこにあるか知らされていませんでした。敵もまさか、“神の島”に砲台があるとは予想しなかったのではないでしょうか」

嚴島神社のちょうど裏側、厳島海峡を一望する標高157mの高台にある、旧陸軍広島湾要塞の鷹ノ巣高砲台跡。車道から30分ほど山の中を歩いたところに、意外なほど保存状態の良い石造りや煉瓦造りの構築物が残されています。

宮島では、樹木や植物もすべて神のものとされてきたため、伐採には文化庁の申請が必要で、山道には原生林が茂っています。ここでの駐屯は容易ではなかったでしょう。最初に遭遇したのは、少し開けたところにある、兵士たちが炊事に使っていた約18mの深い井戸と、石造りの便所跡。さらに山道を進むと、石垣で囲まれた広場と、28cm榴弾砲が設置されたという大砲の台座跡6門があります。


当時の兵士が使用していた便所跡


台座跡は石垣で区切られたすり鉢状の広場に2つずつ配置され、石垣には連絡し合えるように伝声管の穴が開けられています。海側は敵艦から砲台が見えないように隠されていて、稜線には警備のための連絡道路が設けられていたそうです。広場の後方には、砲弾を並べておく煉瓦造りの砲弾置き場が残っています。中道さんに案内してもらいながら見て歩くと、当時の様子がありありと想像できます。


海側の敵艦から見えないように設置されていた砲台の設置跡


石垣の継ぎ目をなぞりながら、「未だに少しも崩れず、これだけきれいに残っているんですよね。当時の人々が、高い技術力を駆使してていねいに作ったのでしょう」と中道さんは語ります。


煉瓦造りの砲弾置き場


広場を抜け、石の階段を200mほど、息を切らしながら上ると、山の上に海を見渡す方位観測所があります。階段の途中には穴が開けられていて、砲兵指令所の壁につながる伝声管が埋められています。「方位観測所で敵艦を見つけたら、即座に砲兵指令所で敵艦の方位と榴弾砲を落とす角度を計算し、伝声管の前に待機していた兵隊に伝えたのだと思われます」と中道さん。そこからは兵士が石段を全速力で駆け下り、砲台の指揮官に報告したといいます。


階段に開けられた伝声管


方位観測所の近くにはがっしりとした石造りの連隊長指令所も残っています。連隊長の寝所跡もありますが、小さなベッドがやっと置けるほどのスペースで、とても快適そうには見えません。山の中には兵士が敵の攻撃から身を隠すための壕なども残されていて、いざ交戦となったときのために万全に備えていることがわかります。


石造りの連隊長指令所


ただ、幸いなことにこの砲台が実戦に使われたことは一度もなかったとのこと。「実戦に備えて年数回の大砲実弾射撃演習は行われていたそうですが、のちに豊後水道や下関に砲台が完成すると、宮島砲台の戦略的な意味合いは薄まり、太平洋戦争が始まる頃には宮島の兵器類は解体され、戦地に移されたようだ」と中道さん。

宮島にほぼ原形のまま残された砲台跡は、明治時代の構築技術水準の高さや歴史を知ることができる貴重な遺産といえます。

山中にある砲台跡を観光客が訪れることは稀ですが、中道さんたち宮島地区パークボランティアの会のメンバーが年に一度、枯れ葉の除去などの清掃活動を行い、大切に守っています。


瀬戸内海国立公園宮島地区パークボランティアの会 

miyajimapv.episode.jp

〔事務局〕環境省 中国四国地方環境事務所広島事務所

鷹ノ巣高砲台跡

広島県廿日市市宮島町

この記事に関連付けられているタグ