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国際平和拠点ひろしま

バーバラ・レイノルズとワールド・フレンドシップ・センター

広島市にある「ワールド・フレンドシップ・センター」。世界中から訪れる人々に被爆証言を聞ける機会を提供し、人々が友情を築き、平和を促進する場所です。このセンターは1965年にアメリカ人のバーバラ・レイノルズ氏と広島の外科医、原田東岷氏がともに設立しました。

バーバラ・レイノルズ氏の活動とワールド・フレンドシップ・センターについて紹介します。

1 バーバラの歩んだ道

提供:ワールド・フレンドシップ・センター

1951年,バーバラ・レイノルズは、夫アールと3人の子供と共に広島へやって来ました。夫のアールがアメリカ政府から、原爆被害にあった子供たちの調査のために、原爆傷害調査委員会(ABCC、現在の放射線影響研究所RERF)へ派遣されたからです。
3年の任期の後,バーバラとアールは子供2人と、3人の若い日本人を伴い、フェニックス号と命名されたヨットで、広島を出航しました。

自分たちのヨットで世界中を航海することは、アールの長年の夢でした。行く先々で彼らと出会う人々は、同行の日本人に原爆の被害や影響について,たくさん質問をし,バーバラ一家は、話を聞きながら多くのことを学びました。世界中を旅するにつれ、家族の関心は世界平和へと発展していきました。というのは広島での3年間、彼らは米軍関係者のための駐留場所、呉市虹村に住み、日本人との接触もほとんどなく、原爆によって広島に何が起きたのかあまり理解していなかったからです。
バーバラ一家はハワイに寄港した際、4人のクエーカー教徒が、南太平洋での自国の水爆実験を阻止しようと、実験を行なっていた立ち入り禁止海域に、ゴールデン・ルール号で、進入しようとしていることを知りました。バーバラ一家も使命感に駆り立てられ、自分たちも同じように、フェニックス号で水爆実験区域に乗り入れ、抗議しました。その結果アールは逮捕されますが、2年間の法廷闘争の後,無罪を勝ち取り、広島に帰ります。

広島に帰って1年後、バーバラ一家は、ソ連の核実験にも抗議して、「世界の反核、平和のメッセージ」の抗議文を携えて、フェニックス号でナホトカへ行きました。ソ連側は上陸を拒否しました。しかし、バーバラは、生まれて初めて会ったロシア人のソ連側の係官と話し、米ソ両国民が膝を交えて話し合うことが出来たら、お互いそんなに恐れる必要はないのだと感じます。

ゴールデン・ルール号
出典:Mum

出典:Mum

2 平和巡礼の旅

ソ連への航海から広島に戻ってきたバーバラは、翌年1962年に一人の被爆者と、原爆で孤児になった若者を連れて、平和巡礼の旅に出発しました。原爆の話などの本を携えて、核保有国を含む12ヶ国を訪れました。2年後の1964年バーバラは、25人の被爆者(広島から19人、長崎から6人)と通訳を伴った「平和巡礼団」を組織し、75日間かけて核保有国を中心に8ヶ国、150の都市を訪れ、核廃絶を訴えました。

第1回平和巡礼
提供:ワールド・フレンドシップ・センター
第2回平和巡礼
提供:ワールド・フレンドシップ・センター

3 ワールド・フレンドシップ・センター

バーバラ・レイノルズは1965年、広島の外科医、原田東岷と共に「ワールド・フレンドシップ・センター」を設立しました。世界中から訪れる人々に被爆者から直接、被爆体験を聞ける機会を提供し、人々が友情を築き、平和を促進する場所として今日まで続いています。バーバラの意思を受け継ぎ、被爆証言・平和交換使節・英会話クラス・平和公園ガイド・ピースセミナー・留学体験のような様々な活動を提供しています。

提供:ワールド・フレンドシップ・センター

4 名誉市民授賞式

1969年にバーバラはアメリカへ帰国し、カリフォニア、ロングビーチでの自宅でベトナムやカンボジアの戦災孤児を世話して面倒を見ていました。
1975年にオハイオ州ウィルミントン大学で、「ヒロシマ・ナガサキ30年後」と題された平和会議の開催に尽力します。ウィルミントン大学には「広島・長崎記念文庫」が設立されました。核兵器廃絶運動に尽力し、ヒロシマを世界に知らしめた功績により、この年に広島市特別名誉市民の称号を授与されました。

 

原田東岷医師の言葉を借りると、バーバラは「花神」なのです。花神は、種は蒔くけれども、その収穫は自分のものとせず、他の人に譲って収穫を喜んでもらうということです。バーバラは難民救済にも力を尽くし、生涯清貧を貫きました。また、クエーカー教徒として、バーバラは神への強い信仰に生き、祈りと人類愛に満ちた行動をしました。1990年2月11日心臓発作で天国に召されました。

 

提供:中国新聞

5 バーバラの碑

2011年6月、バーバラ・レイノルズの記念碑の除幕式が行われました。それは平和公園内のノーマン・カズンズと マルセル・ジュノーの記念碑の傍にあります。碑文「私もまた被爆者です」は、バーバラが被爆者に常に心を寄せていた ことを示しています。

バーバラ・レイノルズ記念碑
提供:ワールド・フレンドシップ・センター

6 現在もつながるバーバラの精神

世界中の人々のヒロシマへの窓口として、ワールド・フレンドシップ・センターは今日まで続いています。「一期一会が平和を築く」という信念に基づいています。

1965年の創立以来、約40組のアメリカ人夫婦がセンターの館長として派遣され続けています。
ここではあらゆる国の人々が出会い、経験を分かち合い、平和について語り合うことができます。

提供:ワールド・フレンドシップ・センター

7 ワールド・フレンドシップ・センターの主な活動

【英会話クラス】

毎週火曜日から土曜日まで、レベル別の英会話クラスがあります。
2時間の間、お茶の時間をはさんで自由な会話を楽しみます。

 

【被爆証言】

世界各地からの宿泊客を受け入れ、希望があれば被爆証言を提供しています。被爆者の方は、「二度と同じような苦しみを他の人には味あわせたくない」という気持ちで、自らの体験を語られています。平均年齢が80歳を超え、被爆者の方から直接、体験を聞ける貴重な機会は限られてきています。今後どうするかは重要な課題となっています。

 

【平和公園ガイド】

英語で案内しながら、平和公園の主要な碑を約1時間半かけて説明しています。そのための勉強会も毎月1回しています。

 

【平和交換使節(PAX)】 

バーバラが1962年と64年に実施した平和巡礼が、PAX(平和交換使節)の基礎となっています。現在アメリカと韓国との間で平和使節交換プログラムがあります。人と人とが出会い話し合えばそこに相互理解が芽生え友情が生まれます。友情が戦争を防ぐと言うのが、バーバラの考えです。

提供:山根美智子

【むつみ園慰問】

1985年から月1回、第3木曜日に館長や英語クラスの人達が、原爆養護ホームを訪問しています。むつみ園は日本で一番古い原爆養護ホームで1970年、舟入病院の隣に建設されました。約100人の入居者の皆さんは、とてもお元気で一緒に歌を歌ったり、ゲームをしたり、話をしたり、その月生まれの方の誕生祝いをしたりしています。

提供:山根美智子

【国内留学体験】

英語が好きで海外で学びたいという学生を対象に、バーバラ・レイノルズやワールド・フレンドシップ・センターの活動を学び、平和について考えるプログラムを実施しています。国内にいながら英語だけの生活が体験できます。

提供:ワールド・フレンドシップ・センター

文責:NPOワールド・フレンドシップ・センター理事長 山根美智子

 

参考文献

「ヒロシマ巡礼 バーバラ・レイノルズの生涯」  小谷瑞穂子 1995年6月25日 (株)筑摩書房

「平和の瞬間」 原田東岷  1994年5月20日(株)勁草書房

「ヒロシマに生きて」原田東岷 1999年4月2日 株式会社草の根出版会

「The Phoenix and The Dove」 Barbara Reynolds  Dec. 25 , 1986 Nagasaki Appeal Committee

“Mum”, The Conscience, Courage and Compassion of Barbara Reynolds
June12,1915—February 11, 1990 by Jessica Reynolds Renshaw
2014年6月

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