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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1コラム:広島のシンボル,原爆ドーム

はじめに

平成8(1996)年12月,世界遺産に広島の建築物が加わった。英文の正式登録名にいう“HiroshimaPeaceMemorial(GenbakuDome)”,いわゆる原爆ドームだ。平成4年,日本がユネスコ(UNESCO)の世界遺産条約に加盟したのを契機に,原爆ドームを「核兵器の恐怖を物語る生き証人として」世界遺産に,という声が上がった。市民による全国的な署名運動も奏功し(平成7年6月には国の史跡に指定),核兵器廃絶と世界平和を求めるシンボルとして,世界遺産一覧表への登録が実現した1)。

1チェコ人建築家の作品

原爆ドームはかつて,広島の特産品を陳列する物産陳列館であった。明治時代,農商務省は近代国家の「臣民」を啓発するため,各種の陳列所の設置を勧めた。産業の近代化を目に見える形で示した物産陳列館が各地に設けられ,大正6(1917)年には,公立だけで26館も数えた2)。広島でも,明治44(1911)年から4か年計画で陳列館の建設を決定したが,公的投資は郡部を優先すべきとの声もあって,建設計画は停滞する。そんななか,大正2年2月,宮城県から転任してきた寺田祐之知事は,陳列館は地元産品の品質向上と販路拡大の拠点施設となり,地域振興の要になるとして,事業を強力に推し進めた。

寺田知事は,かつて宮城で「日本三景」の一つ,松島に県営ホテルを新設し,外国人観光客を誘致する観光振興策を指揮した経験があった。この「宮城県営松島パークホテル」を設計したのが,チェコ人建築家ヤン・レツルだ。寺田は広島でもレツルを起用する。レツルは,チェコ近代建築の父ヤン・コチェラに学んだ後,明治の末に来日。日本に近代建築の先駆けとなる本場のセセッション様式を紹介した。

さて,広島の陳列館の敷地は,旧浅野藩の米倉の跡地と元安川河岸の埋立地,その他を加えた974坪(3,214.2m²)で,広島市がこれらを準備した。当時,広島随一の繁華街を対岸に見るこの地に,広島県が建設費約12万円で,建築面積310坪(1,023m²)の陳列館を建設する運びとなる。

大正4(1915)年4月,元安川の河畔に「82尺〔約25m〕の円塔」を頂く「白亜の摩天楼」が落成した。同年8月15日,寺田知事は「県物産の改良増進を図り,関連の発展に貢献する」と語り,ここに「広島県物産陳列館」がオープンする3)。館内では,県産品を紹介するだけでなく,県内の物産の品質の向上,取引の仕方,販売方法の改善などを助言,提案する場も設けられた。開館の翌年,大正5年5月には「第1回広島県美術展覧会」が開催され,以後,吉田壽信初代館長自らを会長とする「広島美術協会」が県美展を開催し4),また音楽会や講演会が催されるなど,物産陳列館は幅広く活用された。ちなみに,ドイツ菓子のバームクーヘンが日本で初めて紹介されたのもこの陳列館である5)。

物産陳列館は,大正10年1月に「広島県立商品陳列所」,昭和8(1933)年11月には「広島県産業奨励館」と改称された。

2産業奨励館の盛衰,そして運命の日

産業奨励館は,昭和9(1934)年に中国東北部の大連,新京,ハルビンに出張所を作り,昭和13年以降,奉天と天津,上海,神戸にも事務所を置いた。その後,館内に広島県中央商工相談所が設けられるなど,産業奨励館の活動は昭和戦前期にその頂点を迎える。

そんな産業奨励館にも戦争の影が帯びてゆく。昭和16年6月,日本木材統制会社広島出張所が入居し,同じ時期にはレツルがデザインした門扉が金属類回収令によって供出の憂き目にあった。展示室の催しも戦時色が濃いものとなり,昭和18年12月の「聖戦美術傑作展」を最後に,すべての展示室が国や県の機関,統制会社等の戦時行政の事務室に転用された。昭和19年3月31日に館の業務が完全に停止,1年余り後に運命の日を迎える。

昭和20年8月6日,米軍機エノラ・ゲイが投下した原子爆弾は,産業奨励館の南東約160m,地上約600mの上空で炸裂した。奨励館は爆風・熱線・放射線をほぼ真上から受けた。対岸の燃料会館(現・レストハウス)で被爆し,奇跡的に一命を取りとめた野村英三によれば,奨励館は8時半から9時頃に窓枠から燃え始めた6)。当時,奨励館にいた統制組合や県職員ら約30人全員が即死した7)。ほぼ垂直に爆圧がかかったため,楕円柱の形体で比較的壁が厚かった中心部はかろうじて倒壊を免れた。

3原爆ドームをどうするか

「見まい,思い出すまい,思い出すのはたまらない,見まいとしても見なければならない陳列館跡。わたしはこの陳列館をどうしたらいいか8)」―妻の丸木俊とともに「原爆の絵」を描いた画家・丸木位里は,原爆投下から5年後,こう自問した。

少なからぬ広島市民も奨励館の廃墟に戸惑いを抱いたが,他方で,この被爆建物は内外の観光客を呼び込む「アトム・ヒロシマ」のランドマークになっていく。終戦直後の占領軍の広島案内には“DOME”BUILDINGCommercialMuseumとあり,被爆地の「名所」として紹介されている9)。広島市が昭和22(1947)年8月に決めた「原爆10景」には,被爆者の感情に配慮したためか,原爆ドームは選定されていない。ちなみに,翌23年7月に広島市観光協会が指定した「原爆記念保存物13カ所(原爆名所13景)」では,ドームが一番目に取り上げられている。

さて,この頃,『夕刊ひろしま』は,復興の停滞を嘆く企画記事のなかで,「あなたはいつまでそのままで?」との見出しと写真を掲げ,原爆ドームを撤去し,過去を「清算しなければいけない」と訴えた。そんななか,昭和24年の春,広島平和記念都市建設法の成立がほぼ確実になり,「平和記念公園及び記念館」の設計コンペが実施される。コンペは建物だけでなく,公園全体を計画するという壮大なもので,丹下健三東京大学助教授のグループが一等を勝ち取った。丹下は,原爆ドームを「シンボルとして残すべき」と考え,設計の中心に据えた11)。

同じ昭和24年の10月,広島市は被爆体験者500人にドーム存廃を問うアンケートを行っている。428人から回答を得たが,それによれば,保存派が62%,撤去派35%であった12)。毎日新聞社の世論調査でも,保存派63%,撤去派23%であり,保存派の過半数(64%)がドームを「原爆広島を象徴する名物的存在」と位置づけていた13)。戦後初期,多くの広島市民は早急な撤去を望んでいなかったようだ。

なお,「原爆ドーム」という表現が使われ始めるのは,昭和25年頃からだと見られる。新聞紙上では,同年6月23日付の『中国新聞』の社説「観光への注言」で初めて使われ,文学作品でも,同年かなとこぐも9月発行の俳句誌『夜』に藤井美典「鉄鈷雲原爆ドームに蟻狂ふ」が掲載された。昭和26年の夏には,「原爆ドーム」の呼称が新聞・雑誌で散見されるようになり,平和条約が発効し,日本の主権が回復された翌27年には,「原爆ドーム」の表現はより一般化した模様である14)。

4保存をめぐる綱引き

昭和28(1953)年11月,広島県は原爆ドームを広島市に譲与すると通知した15)。市の管理下でも,放置の状態はしばらく続き,広島市長の渡辺忠雄は昭和31年3月15日の広島市議会の席上,「あのまま残しておく」旨を答弁した16)。

その扱いが定まらぬまま,「原爆ドーム」の呼称が定着していき,またドームを他の原爆遺跡とは一線を画した平和の象徴とする,という見方も出てきた。後者については,例えばドイツ出身のユダヤ系ジャーナリスト,ロベルト・ユンクは,原爆ドームは世界的シンボルであり,「将来起こりうる運命への警告」を発する特別な意味を持つと書き,ドームの保存を強く訴えた17)。

「あの痛々しい産業奨励館だけが,いつまでも,恐るべき原爆を世に訴えてくれるのだろうか〔要旨〕」―1歳で被爆し,16歳で白血病のため死去した楮山(かじやま)ヒロ子が昭和34年8月6日に書いた日記だ。この日記が彼女の両親から,ユンクと親交のあった「広島折鶴の会」の世話人・河本一郎に託された。昭和35年5月5日の「原爆の子の追悼の集い」で,「広島折鶴の会」の会員がこの日記を読み上げ,ドームの保存を訴えて,募金と署名集めの活動を開始する18)。その一方で,保存に否定的な考えも依然として根強かった。例えば,昭和38年10月,ドームの真北に位置する広島商工会議所の改築工事に伴い,同会議所が広島大学工学部にドームの調査を依頼した際,濱井信三広島市長は「ドームを補強してまで保存する価値はないと思う」との見解を示している19)。

5永久保存を決める

昭和39(1964)年3月,核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)は,広島平和記念公園の慰霊碑の北側に「平和の灯」を建設する考えを表明した。広島県や広島市,政財界,労働組合,宗教界,学会などの代表40人による「平和の灯建設委員会」が組織され,丹下健三に設計を依頼,同年8月1日に完成し,点灯式が挙行された20)。慰霊碑からドームを見る軸線上に位置する「平和の灯」の存在で,原爆ドームの象徴性はより高まった。

同じ昭和39年12月,広島県原水禁,広島県原水協,核禁会議など11団体が原爆ドームの保存を求める共同提案を行い,広島市に対し,ドームは「核時代の記念塔」であるとして,その保存を要請する。翌40年3月,湯川秀樹京都大学教授など8人が同様の要望書を広島市議会議長宛に提出した。内外からの要請を受け,広島市は被爆20年に当たる昭和40年度予算に原爆ドームの強度調査費100万円を計上,調査の結果,専門家から補強すれば保存可能,との報告を受けた21)。

かくして昭和41(1966)年7月11日,広島市議会は,原爆ドームの永久保存を満場一致で決議する。保存に賛同する全国の人びとから募金が寄せられ,その寄付金は昭和42年7月の段階で約6,620万円にも達した。煉瓦壁の内部に接着剤を注入し,壁全体を固めて,建物の要所に鉄骨組の補強を入れる保存工事が行われ,42年8月5日に完工式が挙行された。その後も,数回にわたって保存工事が行われ,現在,広島市は経年劣化等の把握を目的に,原則として3年ごとに健全度調査を実施している。

(菊楽忍・永井均)


注・参考文献

1)「原爆ドームの世界遺産化をすすめる会」制作の100万人署名呼びかけチラシ,および『原爆ドーム世界遺産登録記念誌』(広島市,1997年)を参照。

2)『中国新聞』1917年10月21日付。

3)『中国新聞』1915年8月16日付。

4)『中国新聞』1916年6月22日付。

5)大正8(1919)年3月開催の「独逸俘虜技術工芸品展」で紹介・販売された。同年3月5日付の『中国新聞』では,「菓子即売所の前は場内一の雑踏,三人の俘虜係員が眼の廻る忙しさ」と報じられている。

6)「市民が描いた原爆の絵」野村英三GE28-33,広島平和記念資料館所蔵。

7)広島市編『広島原爆戦災誌』第2巻(広島市,1971年)73頁。

8)丸木位里「陳列館跡」(『中国新聞』1950年10月5日付)。

9)被爆資料0103-0049,スーザン・ナタリー・タウンゼンド氏寄贈,広島平和記念資料館所蔵。広島を訪れる占領軍兵士向けに作られた,原爆ドームのイラスト入りの冊子で,昭和21(1946)年に来広した英軍兵士が保存していた。

10)『夕刊ひろしま』1948年10月10日付。

11)丹下健三『丹下健三―一本の鉛筆から』(日本図書センター,1997年)65頁。

12)『中国新聞』1950年2月11日付。

13)『毎日新聞』1951年8月5日付。

14)西本雅実「ヒロシマの記録」(『中国新聞』2007年6月5日付)。

15)『中国新聞』1953年11月15日付。

16)広島市議会編『広島市議会史―議事資料編2』(広島市議会,1987年)816頁。

17)ロベルト・ユンク「原爆ドーム」(『中国新聞』1954年8月5日付)。

18)河本一郎資料,広島平和記念資料館所蔵。

19)『中国新聞』1963年10月5日,23日付。

20)『核兵器廃絶と人類の繁栄を求めて―核禁会議50年史』(核禁会議,2011年)41頁。

21)昭和40(1965)年7月28日から,広島大学工学部建築学教室による調査が開始され,同年11月15日,佐藤重夫教授から広島市に中間報告があった。

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