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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1II 原爆投下

1 原爆投下への道程

アメリカとイギリスにおける原子爆弾の開発は,ナチス・ドイツが原爆を保有する可能性を憂慮する科学者の訴えをきっかけに始まった。イギリスでの検討で,原爆が実現可能なことを知らされたルーズベルト米国大統領は,昭和17(1942)年6月,原爆の開発計画を秘密裏に開始させた。昭和18年4月にはニューメキシコ州にロスアラモス研究所を設置,20億ドルの資金と科学者・技術者を総動員した大プロジェクトとなった。昭和19年9月の米英首脳会談で,原爆が完成した場合,慎重に考慮したうえで日本に対して使用することが合意された。原爆投下の実行部隊(第509混成部隊)が編成され,原爆投下の秘密訓練を開始した。昭和20年7月16日,ニューメキシコ州アラモゴードの砂漠で史上初の原爆実験が行われた。昭和20年5月には,8月初めに使用予定の2発の原爆の投下目標として,京都・広島など4都市が選定された。その後,投下目標都市は何度か変更があったが,投下目標都市への空襲は禁止された。原爆のもたらす効果を把握できるようにするためであった。

科学者は原爆使用反対の請願を提出,軍高官のなかにも原爆使用不要とする考えがあったが,戦後世界での覇権や対日参戦するソ連に対する優位を確保する,巨額の費用をかけて開発した兵器であることなどの理由から,倫理的リスクを冒しても,あえて原爆を使用しようとする状況があった。

7月25日,トルーマン米国大統領は原爆投下の指令を承認した。このとき広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降に投下することとなった。7月26日,日本の無条件降伏を求めるポツダム宣言が発表された。日本政府がこれを直ちに受諾すれば,原爆投下は避けられたわけである。裏返せば,米国が原爆を実戦で使用することにこだわるなら,急ぐ必要があった。ソ連の対日参戦が迫っており,和平の望みを絶たれた日本が降伏する可能性があった。

8月2日,原爆による攻撃を8月6日に行うことを決定した。第1目標は広島(照準点は相生橋付近),予備の目標は小倉,そして長崎であった。8月6日,広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイが投下された。続いて,8月9日に長崎にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下された。8月14日,日本政府はポツダム宣言を受諾し,翌15日,昭和天皇による終戦詔書の朗読が放送された。第3の原子爆弾が準備され,前日まで原爆の投下訓練が行われていた。

2 原爆の威力と被害

8月6日,テニアン島から飛び立ったB-29エノラ・ゲイ号から相生橋を投下目標として,午前8時15分,原爆が投下された。約43秒間落下した後,相生橋よりやや南東の島病院付近高度約600メートルの上空で核爆発を起こした。核分裂により大量の中性子線が放出された。爆発の瞬間,巨大な火球ができ,強烈な熱線が放出され,周辺の地表面は3,000~4,000°Cに達した。火球が消えた後,高度約1万6,000メートルに達する巨大なキノコ雲(原子雲)が生じた。また,爆心地では最大風速440m/秒の強烈な爆風が発生した。爆風は放射状に広がり,約10秒後にはほぼ市街全域に到達した。

熱線が放出されたのは短時間であったが,きわめて強烈で,爆心地から1キロメートル地点の人は重度の火傷を負い,3キロメートル以上離れた人でも衣服を着ていない部位に火傷を負った。爆風により,人々は吹き飛ばされ,死亡あるいは負傷・失神した。爆心地から2キロメートル以内の木造建築は全壊し,人々はその下敷きになった。その後,熱線による自然発火と倒壊した建物からの発火が延焼して,爆発30分後には火事嵐が吹く大火災となった。爆心地から2キロメートル以内の燃えるものは燃えつくし,多くの人が焼け死んだ。原爆から放出された放射線は,人体に深刻な障害を引き起こした。爆心地から1キロメートル離れたところで中性子線・γ線合わせて4グレイ,半数の人が死に至る放射線量と推定されている。外傷が全くないのに,放射線を浴びたため数日後に発病し,その後死に至る人が相次いだ。これら直爆を受けた人以外にも,残留放射能や直後に降った放射性降下物を含む「黒い雨」により,周辺居住者や入市者も放射線を浴びた。

原爆による死者の数は,正確につかめていない。広島県警察部が,昭和20(1945)年11月30日現在で軍関係を除く犠牲者一人ひとりを積み上げて求めたところによれば,死者が7万8,150人,行方不明が1万3,983人となっている。一方,軍関係では,昭和22年11月現在で諸部隊の書類を全部調査した結果として,死亡者9,242人,生死不明889人という数字があげられている。これに対して,実際の死亡者数に迫るためさまざまな推計が行われてきた。広島市が昭和51年に国連に提出した資料では,同20年末までの死亡者14万人±1万人と推計している。近年では,各種被爆者情報をコンピュータに統合し同定する「被爆者動態調査」が続けられている。最新の調査では,被爆者の総数は直接被爆38万4,743人,入市被爆11万8,861人,それ以外を含め計55万7,478人となっている。このうち,8月6日の死亡者は5万3,644人,昭和20年末までの死亡者は3万5,334人(計8万8,978人)となっている3)。

3 救援体制と動員

原爆の炸裂は,空襲への事前の備え・想定をはるかに超えるものであった。県庁は全壊し,空襲で罹災した場合の移転先として予定していた市役所・本川国民学校・商工経済会・安芸高等女学校・福屋も消失もしくは倒壊した。空襲罹災に対し指揮を執る県庁は一時機能マヒとなり,県防空本部が立ち上がるのは,被爆からおよそ9時間後のことで,出張中の県知事にかわり,警察部長が比治山多聞院に設置したのであった。警察部長は,可部署・海田市署を通じて県下の警察署に対し既定計画に基づく食糧の応援,警察官・警防団員・救護班員の応援を指示した。

宇品の陸軍船舶司令部(通称暁部隊)は,被爆直後から独自に救援活動に取り組んだ。船舶司令官は,火傷患者が押し寄せ始めた午前8時50分,「本六日〇八一五敵機ノ爆撃ヲ受ケ各所ニ火災発生シ爆風ノ為被害相当ニアルモノゝ如シ」として,とりあえず市内の消火・救難を命じるとともに,患者を似島検疫所に輸送するよう命じた。さらに午前11時30分に至ると,全部隊に対し日常的業務を停止し,救援活動に従事するよう指示した。患者が激増するなかで,午後8時40分,安芸郡坂村の横浜国民学校など4か所に療養所を開設し,1,000人を海上輸送した4)。

6日午後2時ごろ,中国地方総監府の副総監は,第2総軍司令部を訪れ,総監の死亡,県庁・市役所・警察機関の全滅を報告,事態収拾の軍への委任と罹災者の救援を要請した。これを受けた第2総軍は,すでに救援活動の指揮をとっていた船舶司令官を広島警備担任司令官に任命した。こうして,自然発生的な救援活動が船舶司令官を最高責任者とする一つの指揮系統に統一された。本土決戦体制の下である。未曾有の混乱の中でも,命令一下,救援・事態収拾のため大動員がなされた。

軍による救援活動の中心になったのは,宇品の船舶部隊であったが,船舶司令官の命令により広島市以外に駐屯の船舶部隊も広島入りした。広島市内外からの船舶部隊の出動は4,000人に及んだ。呉鎮守府も,広島からの帰来者の報告により,午前11時20分,救護隊派遣準備を命じ,午後1時25分,5隊の救護隊を派遣した。第2総軍の命令により隷下の部隊も相次いで来援した。7日早朝には,賀茂郡原村(八本松)に移駐していた総武歩兵第321部隊の約160人が広島市内に到着した。広島第1陸軍病院の江波分院と戸坂分院では,被爆直後から救護活動を行うなど,各陸軍病院関係による救護活動も行われた。

被爆により,広島市内の防空体制は壊滅に近い打撃を蒙ったが,広島市空襲に備えた全県的救援体制はただちに機能し始めた。被爆当日の6日午後3時までに乾パン12万食が配給され,同日中に豊田郡の救護班が比治山多聞院に到着し,救護所を開設した。翌7日には,各警察署管内の救護班員計300人が来広した。また,同日,警察官190人・警防団員2,159人も広島に出動している。警防団員の出動は延べ2万人を超えた。広島県内の各郡に設置されていた広島地区特設警備隊では,広島市被爆の報が伝わるとただちに広島救援の召集がかけられた。医師や看護婦などからなる救護班の広島出動は,戦時災害保護法の適用期限である10月5日まで続いた。出動した県内救護班員の総数は,実人員2,557人・延べ人員2万1,145人,県外救護班の出動は,実人員715人,延べ人員5,397人に上った。このほか,高等女学校の教員・生徒なども救護に動員された。

なお,軍,とりわけ憲兵隊は空襲下での秩序維持に腐心した。8月8日,中国憲兵隊司令部から出された命令では,次のように悪質流言飛語を警戒している4)。

今次空襲ニ敵ノ使用投下弾ハ従来ノソレニ比シ威力大ナリシ為民心ハ恐怖不安ニ駆ラレ,該爆弾ノ性能ヲ過大視シ惨害甚大ヲ吹聴スルモノ,或ハ軍ノ防衛作戦ニ言及シ,甚シキハ悲観論乃至敗戦的言動ヲナシ,延テハ反軍反戦和平的希求ノ素因トナルカ如キ悪質流言飛語ノ発生ヲ予想セラルルヲ以テ,之カ取締ヲ徹底強化スルモノトス

4 救護所

広島市は,空襲に備えて市内各国民学校など32か所の救護所および18か所の救護病院を指定していた。しかし,原爆により大打撃を受け,計画どおりの救護活動は遂行不可能な状態となった。焼け跡であろうと,河原であろうと,重傷患者が多数集結した場所が救護所と定められ,そこに救護班が配置され,自然発生的な救護活動が始まった。しかし,重症者や大量に放射能を浴びた患者になす術はなかった。

救護所の総数は明らかでないが,各種文献・手記から判明するだけで,8月6日当日に設けられた救護所数は,市内99か所(うち病院救護所16),市外142か所(うち病院救護所38),計241にのぼる5)。

広島赤十字病院・広島逓信病院など倒壊・全焼をまぬかれた病院では,被爆直後から救護活動が行われた。各所に救護所が設けられ,本川国民学校では,陸軍の衛生隊が7日から治療に当たった。同校には8日から9月6日にかけて,西条療養所・三次・加計・尾道・三原・竹原・因島の救護班の来援があった。

広島市内から脱出し,あるいは搬送された避難者・負傷者は優に20万人を超えた。徒歩で脱出した者も多かったが,鉄道やトラック,船でも運ばれた。芸備線筋では庄原や東城,西部方面では大竹・岩国など遠隔地にも多数が収容された。周辺町村では,救護所や学校などのほか民家にも割り当てて避難者を収容した。

5 屍体処理

負傷者の救護とならび屍体の処理という困難な課題があった。屍体の処理は,一般民衆に及ぼす影響は重大であり,「夏季腐敗期」でもあり,「丁重且迅速」に実施することとし,現場において火葬または土葬,できるかぎり神官僧侶を列席させ,「人名止ムヲ得サルモ柱数」を確実に調査するとの指示が出された。第一次の屍体処理は8月9日までに完了するよう命ぜられた。

軍・警察・警防団による全般的屍体処理作業は8月11日に一応終了し,以後は海中や焼跡など部分的作業が続けられた。8月20日現在までに県が把握した屍体処理数は,警察機関の処理数1万7,865人,軍部隊の処理数1万2,054人で,その他市外に避難し死亡した者3,040人であった(この時点での屍体処理数は死者の半分にも満たなかったということになる)。市内現場では火葬に付し,近親者・縁故者・市役所などに引き渡された。広島市が引き取った遺骨は,市民部保健課で遺族へ交付した。10月31日現在での授受取扱数は,受領1万1,525体,交付4,805体,残6,720体であった6)。

(安藤福平)


注・参考文献

3)広島市『原爆被爆者動態調査事業報告書』2013 年3月

4)「船舶司令部作命綴」(防衛省防衛研究所戦史研究センター蔵)

5)谷整二「1945 年8月6日広島原爆投下時の救護所」 (http://home.hiroshima-u.ac.jp/heiwa/Pub/42/22Tani.pdf)

6)『昭和 20 年広島市事務報告書並財産表』

・広島市役所『新修広島市史』全7巻,1958 年3月~ 1961 年2月

・広島市役所『広島原爆戦災誌』第1巻,1971 年8月

・広島県『広島県史』原爆資料編,1972 年3月

・広島県『広島県史』近代2,1981 年3月

・広島県『広島県戦災史』1988 年6月

・吉田守男『京都に原爆を投下せよ』(角川書店,1995 年7月)

・広島平和記念資料館『ヒロシマを世界に』1999 年3月

・NHK 広島「核・平和」プロジェクト『原爆投下・10 秒の衝撃』(日本放送出版協会,1999 年7月)

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