Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1III 平和記念都市建設計画の事業化と効果
1広島平和記念都市建設法の効果
昭和24(1949)年8月6日に公布施行された広島平和記念都市建設法の基づき,早速同24年度の追加予算約3,100万円が組まれ国からの特別な補助が実施された。昭和25年度は1億8,000万円の追加であった。その後も他の戦災都市に比較しても長崎と共に特別の枠で戦災復興事業費の補助がなされた。平和記念施設に対して3分の2という高い補助率での補助であった。平和記念資料館の建設費や平和記念公園の整備費はこの補助によって支援されたのである。国有財産の譲与も相当規模でなされ,たとえば白島や吉島などの小学校,二葉や幟町などの中学校,基町高校,牛田町にある水道施設,市民病院などの用地が譲与された。
広島平和記念都市建設法の効果はこういった国からの特別補助だけでなく,国から見守られ,支援されているという精神的な支援もきわめて大きな役割を果たした。広島の復興において,広島自身の復興への取り組みだけでなく,このような支援の仕組み,物心両面での支援が重要であるということであろう。
2特徴的な計画の実現―とくに百メートル道路計画
広島の復興計画,とりわけ平和記念都市建設計画は3大特徴を有すると判断されている。
いわゆる百メートル道路は,昭和21(1946)年の当初復興計画における広路I比治山庚午線のうち延長3,570メートルの幅員が百メートルであったことから,通称百メートル道路とされ(写真4―2),同26年11月に公募により平和大通りと名付けられた道路である。ところがこの路線から南に約2キロのところに,当時出汐庚午線(のちに霞庚午線)と呼ばれたもう一本の百メートル道路が計画されていた。これは昭和24年の全国的な再検討見直しによって縮小されるのである。完成したばかりの平和記念公園南部の東西に位置する橋は,平和大橋,西平和大橋と名付けられた。百メートル道路をめぐる問題として作家大田洋子が著した「夕凪の街と人とー1953年の実態」において,昭和28年ごろの広島で百メートル道路に批判的な人たちが描かれている。
さらにその決定的な状況は,昭和30年4月に実施された広島市長選であった。それまで二期広島の復興を進めてきて実績十分とも思われていた現職の濱井信三が,都市計画の見直しを訴え,とくに「百メートル道路の幅を半分に」「市民のために住宅建設を」と訴えた渡辺忠雄候補に敗れたのである。のちに渡辺市長は,公約を撤回し,昭和32,33年に献木運動,供木運動によって中央のグリーンベルトへの植樹を進めることによって,しだいに景観も整えていった。
3海外からの援助
広島の復興は国によって支援されただけでなく,海外からの支援があったことに触れておかなければならない。シュモー博士は昭和24(1949)年に広島を訪れ,原爆罹災者のために住宅を建設して提供することを思いたった。ヒロシマの家・シュモーハウス計画の発端である。その後幾度も広島を訪れ,皆実町や江波山(二本松一丁目)などに計21戸の建設を進め,寄贈したのである。
ハワイやアメリカ本土,カナダ,ブラジル,ペルー等に移住していた広島県人は,広島の原爆被害に対して義捐金や援助物資を送って支援した。ハワイの県人会は,昭和23年4月に広島戦災救済会が結成され,救済募金運動をして復興資金のための義捐金を送金してきた。そのようななかで,基町の中央公園内に建設された市児童図書館は,アメリカ・カリフォルニア州在住の広島県人会からの寄付によるものであった。これは,昭和27年丹下健三の設計でキノコ型のコンクリートシェルに壁面をガラス張りとしたもので,同28年開館し図書を求める子供たちの人気の場所となった。また,平和大橋と西平和大橋は共に,対日援助見返資金により国の直轄事業で建設されたものであった。
直接的な支援ではないが,百メートル道路沿いに建設されたCIE図書館(アメリカ文化センター)といった施設は,文化施設の欠乏状態であった広島にとって貴重であった。
また,幟町に建設されたカトリック教会である世界平和記念聖堂にかかわる各種設備も寄贈されたものである。たとえばドイツ(当時は西ドイツ)のケルン市からはパイプオルガン,ボーフム市の鉄鋼会社からは4つの平和の鐘,デュッセルドルフ市からは玄関の正面扉,ミュンヘン市からは説教台,当時の西独アデナウアー首相からはモザイク壁画,アーヘン市からは洗礼盤,ベルギーからは本祭壇,聖堂内の各所で明かりとりと雰囲気づくりに貢献しているステンドグラスはオーストリアやドイツ,ポルトガル,メキシコ,ミュンヘン市の教会等からの寄贈であった。これらは,記念聖堂を建設した幟町教会に贈られたのであるが,多くの場合広島市民への贈り物であるとの認識のもとに贈っていた。寄贈への思いを広島市民としてあるいは日本人として記憶しておかねばならないのである。