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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1I 不法建築の系譜

1 終戦直後の広島駅前

通常,人は毎日少量でも食料を必要とするし,身にまとう衣料が必要である。住まいが破壊されれば,本格的な建物は簡単に用意できないので,とりあえず住めるところを探して身を寄せることとなるにしても,生き延びるためには食料と日用必需品は待ったなしで買い求めなければならない。そこに闇市発生の必然メカニズムがある。正規の流通ルートが整備され,闇ルートの取り締まりが厳しくなれば,いずれ消滅することとなるのであるが,まさに限定された期間における特有の存在形態だといえる。

日本が昭和20(1945)年8月14日,ポツダム宣言を受け入れ,無条件降伏という形で終戦となり,広島では早くも8月末に広島駅前広場に闇市が出現したという記録が残っている。広島駅前一帯の変遷という視点で時代区分1)してみると,第1期「自然発生的駅前広場露店ヤミ市時代」から第2期「民有地集団移転・一部駅前広場再集中ヤミ市時代」,第3期「松原町集団移転民衆マーケット時代」(図5―1)を経て,火災発生に伴って第4期「箱形店舗時代」,第5期「共同店舗化・土地区画整理進捗・駅前広場周辺整備時代」となっていく。その後は再開発準備期,再開発実現・ビル運用期となるが,闇市としての存在は第3期までと捉えてよいであろう。

2 不法建築の蔓延

(1)不法建築発生の主たる場所

広島の復興過程で不法建築住宅群が現れ大問題となった。特に昭和25(1950)年ごろから30年過ぎにかけての平和記念公園内の不法建築住宅群,昭和35年ごろから41年過ぎにかけての広島駅前猿猴川沿いの河岸における多くの店舗を含む不法建築住宅群である。そして,復興事業の最終段階である昭和40年ごろから,53年にかけての太田川本川沿い,基町河岸のいわゆる相生通りといわれた不法建築住宅群であった。その他各地に,とりわけ河岸に多くの不法建築住宅がみられたが,これら3地区がもっとも集中的にみられた不法建築住宅群であった。

(2)平和公園内の民家

平和公園内の不法建築が目立つのは,毎年挙行される8月6日の平和記念式典においてこの式典行事が歴年必ず撮影され,保存されていることによる。昭和27年,慰霊碑が完成して実施されている記念式典の写真(写真5―1)によれば,背後に多く立ち並んだ建物の存在があり,慰霊碑のすぐ反対側に幔幕を張って民家が見えないようにして記念式典を実施している姿があった。翌28年,翌々年の29年の式典写真も同じであった2)。さらに3年後の30年の式典でも幔幕を必要としていた(写真5―2)。この間,式典に参列する人々の規模は次第に大規模となり,整然となっていくのであるが,幔幕を取り巻く環境は同じであった。背後の民家がわずかずつ少なくなっていっているのを読みとることができる。そして,昭和34年の記念式典では完全に民家が立ち退いた状態になった。写真で確認する限り昭和31年にはなお数件民家が残っており,32年,33年にかけて最終的に立ち退いたものと考えられる。

この中島地区は被爆までは人家や商家,娯楽施設が密集しており,また寺院や墓地等も多く集合しており,爆心地から500メートル圏内で被爆による被害も甚大であった。一家全滅や被爆孤児だけが残されたケースなど,家族を崩壊させ,生活の仕組みを奪ったのである。そこが,さらに住む場所ではなく広大な公園用地として指定され,もちろん所有権を抹消されるのではないが,減歩され,離れた場所に換地されるのであるから,コミュニティは再建されず,区画整理後はバラバラに近い状態でのそれぞれの場での生活再建となった。区画整理によって権利のある地主は,換地されて,新たに居住地や貸家業,商業経営など生活基盤を存続させることができたが,そのような基盤が築けない住民は,違法建築に住まわざるを得ない場合が生じることとなる。この不法建築の存在こそが,復興過程を物語る明確な証拠物件なのである。


注・参考文献

1)石丸紀興著:広島駅前ヤミ市の変遷とその特徴(広島市公文書館紀要第 18 号,2005)1~ 34 頁。

2)広島都市生活研究会編集『広島被爆 40 年史/都市の復興』(広島市企画調整局文化担当発行,1985)93 ~ 96 頁。

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