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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1II 河岸での不法建築の発生と河岸緑地の形成

1 当初復興計画における公園・緑地計画から河岸緑地計画へ

当初の戦災復興計画においてどのような公園緑地計画が策定されたかについては記述したところでもあり,ここでは省略するが,基町地区には大公園として中央公園が計画されたことを踏まえておきたい。一方で,この地域に大々的な住宅建設が進み,住宅的な機能と公園的な機能とがせめぎ合う場となる。

昭和24(1949)年の広島平和記念都市建設法の制定に伴い平和記念都市建設計画が策定され,同27年,新たな公園緑地計画が展開されたことは第3章で述べたとおりである。このなかで,当初の復興計画時には考え方としては存在していたが計画決定に至らず,詳細な区画整理設計が進んだ段階で大々的な河岸緑地計画となって13.14ヘクタールの東部河岸緑地,8.18ヘクタールの西部河岸緑地が出現した。東部河岸緑地とは,広島市執行分の東部復興土地区画整理事業区域内での河岸緑地の確保であり,西部河岸緑地とは,広島県執行分の西部復興土地区画整理事業区域内での河岸緑地の確保である。

2 復興計画における区画整理と河岸緑地整備へ

もともと戦前における広島の河岸の多くは民有地であり,場所によっては倉庫や運輸的施設が立地し,あるいは料亭,割烹,旅館といった商業施設や住宅,しかもやや高級な住宅が立地するところであった。もちろん所々に宅地の間をすり抜ける小道があり,川津と呼ばれる石段や雁木に達することができて,川で泳いだり魚釣りや貝掘り等もできたりしたのであるが,道路からは直接川は望めず,川の眺望は建物の窓からか,あるいは橋を渡るときぐらいで,川の街広島といわれても,日常的に川を楽しむことは多くの場所で不可能であった。

このような河岸に戦後は緑地が計画されたのであり,さらに土地区画整理の換地設計がなされると,基本的にはそれぞれの元地から仮換地先への移転が進められることとなった。移転が完了すれば,もとの河岸は公有地となり,最終的に緑地が整備されるはずであった。ところが,仮換地先に移転せずに居座ったり,移転した後に別の主体が入り込んだりして,必ずしも緑地として整備できる状態にならなかった。法的に土地の所有権が失われてそこにとどまれば,不法建築ということになってしまうのである(写真5―3)。

土地区画整理を最終的に換地処分という形で終わらせるには,換地に応じない土地の存在を許すわけにはいかないのであり,昭和41(1966)年1月,いよいよ強制執行による不法建築の撤去という事態に至ったのである。「戦災復興を終わらせるため」とか「戦後の膿を出す難事業」とか表現されたが,まず駅前付近の的場2丁目の河岸の南端から撤去作業が進められた。建物の撤去作業は,当初は警官も出動したが,広島市の職員を動員して進められ,次第に市内全域の対象区域に拡大されていった(写真5―4)。

こうして本格的な河岸緑地の整備が始まったのである。護岸が改めて整備され,堤防には植樹が施され,散歩やジョギング,自転車通行ができるように路面整備がなされ,見違えるような景観となった。さらに後の荒木武市長時代には都市美政策が推進され,河岸緑地には多くの彫刻が置かれるようになった。またさらに後には,オープンカフェと呼ばれる屋外での飲食の場が河岸沿いに置かれて,広島の一つの名物にもなるのである。雁木タクシーと呼ばれる広島の川を使っての移動あるいは川そのものの楽しみ方なども,河岸緑地整備の効用といえよう。今後もさらによい河岸緑地の利用のされ方が創出されるであろうが,そのような努力とともに,広島の戦後に刻まれた河岸の実態およびその変遷過程に思いを馳せ,とくに多くの犠牲を伴いながら整備されたことを忘れてはならないであろう。


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