Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1I 戦時中から終戦直後
1 従業者数の推移
広島県の製造業は,戦前から主力産業の1つであった。製造業の従業者数(常時雇用の職工5人以上の事業所,各年12月31日現在)は昭和15(1940)年に10万40人,沖縄県を除く46都道府県のうち第9位(人口は第10位)であったが,終戦翌年の昭和21年には9万482人にほぼ1万人減少し,順位は第13位に低下した(表6―1)。しかし,昭和22年には1万人近く増加して9万9,305人となり,第11位に上昇した。さらに同23年には1万人以上増加して11万3,581人,第9位(人口は第13位)という戦前の水準に回復している。
表6―1広島県の製造業(昭和15~23年)
昭和15年 | 16年 | 17年 | 20年 | 21年 | 22年 | 23年 | |
人口(千人) | 1,823 | 1,826 | 1,897 | 1,885 | 1,901 | 2,011 | 2,044 |
工場数(所) | 3,280 | 3,274 | 2,976 | 2,221 | 1,897 | 2,804 | 2,837 |
従業者総数(人) | 100,040 | 101,850 | 101,746 | 96,095 | 90,482 | 99,305 | 113,581 |
職員(人) | 8,583 | 10,594 | 10,934 | 14,739 | 14,754 | 16,843 | 15,844 |
職工(人) | 88,337 | 87,424 | 86,686 | 76,802 | 69,456 | 77,756 | 92,352 |
その他(人) | 3,120 | 3,832 | 4,126 | 4,554 | 6,272 | 4,706 | 5,385 |
生産総額(千円) | 446 | 489 | 462 | 745 | 2,010 | 7,279 | 19,853 |
電動機操業実馬力(千馬力) | 144 | 183 | 173 | 欠測 | 134 | 161 | 270 |
(注)1.経済産業省(商工省,軍需省)「工業統計表」,総務省「日本の長期統計系列」から作成。
2.常時雇用の職工(昭和23年から工員)5人以上の工場。生産総額は名目値。
3.昭和18~19年は欠測。
戦災に加えて当時のエネルギー事情もあって,終戦直後に残っていた工場がすべて稼働していたわけではない。昭和21~22年の「工業統計表」では休業工場が集計されているが,休業工場は21年に全国(沖縄県を除く)で1,397か所,うち広島県では79か所であり,東京・神奈川・愛知・大阪・兵庫に次いで多かった。しかし,22年になると全国では496か所,広島県では20か所に減少している。このことからも比較的順調な復旧・復興の様子がうかがえる1)。
注目すべきは昭和20年から21年の動きである。昭和20年に広島県の従業者数は同17年比約4,000人減の9万6,095人であったが,順位は第7位に相対的に上昇した(昭和18~19年は欠測)。従業者数の全国シェア(沖縄県を除く)は昭和15~16年には2.2%台であったが,20年には4.3%に達した。ところが21年になると,一転して従業者数は約6,000人減少して9万482人になった。これは,連合国による賠償請求問題が21年1月から本格化し,その指定と解除をめぐる混乱が影響したのではないかと推察される2)。
その半面,従業者数の全国シェアは昭和21~22年に2.7%台に上昇し,23年には3%を超えた。広島県の人口の全国シェアは昭和17年と20~21年に2.6%台,22~23年には1940年代初頭と同程度の2.5%台であったので,戦後になって初めて製造業従業者数の全国シェアが人口のそれを上回ったことになる。
製造業について広島市の数値が取り出せるのは昭和25年からである3)。ところが,これは当時の市域の統計であり,市域の変更が考慮されていない。現市域に近いものとしては,昭和28年の数値がある4)。これによると旧佐伯町と旧湯来町を除く広島市の製造業従業者数は3万1,515人,人口は48万5,244人であった。広島県全体に対する広島市のシェアは人口では22.9%であったが,製造業従業者数では25.2%であった。また,人口千人当たり従業者数は広島県では59.1人であったのに対し,広島市では64.9人であった。これらのことから,広島市(旧佐伯町と旧湯来町を除く)においては人口に比較して製造業が集積していたことが分かる。
2 従業者数の回復
広島市の人口は昭和19(1944)年には約34万人であり,呉市(約34万人),福岡市(約33万人)とともに3大都市圏の主要都市に次ぐ規模を誇っていたが,同21年には約17.1万人へ半減した5)。原爆投下による死亡者数は昭和20年12月までに約14万人といわれているので,人口の減少幅はこれにおおむね対応している。
その一方,広島県全体の製造業従業者数をみると,最も少ない昭和21年でも戦時中の水準から約1万人,10%減にとどまっている。46都道府県全体(沖縄県を除く)では昭和15年比で20年に50%減,21年に26%減,23年でも18%減であったことから,広島県の製造業従業者数の減少幅は相対的に小さかったといえる。
ただし,これは常時雇用の職工5人以上の工場をみたものである。戦時中ならびに昭和23年の「工業統計表」では,常時雇用の職工5人未満の零細工場の工場数と従業者数が集計されている。昭和15年と23年を比較すると,広島県の総工場数は1万6,589か所から6,515か所へ61%減少した。うち5人以上の工場については3,280か所から2,837か所へ14%減であったものの,5人未満の零細工場については1万3,309か所(総数の80.2%,沖縄県を除く全国は80.4%)から3,678か所(同56.5%,54.4%)に72%減となった。この間,総従業者数は12万9,989人から12万4,298人へ4.4%減であった。うち5人以上の工場については10万40人から11万3,581人へ増加した半面,5人未満の零細工場については2万9,949人(同23.0%,21.9%)から1万717人(同8.6%,9.2%)へほぼ3分の1に減少した。
広島県全体について5人未満の零細工場の従業者の内訳をみると,昭和15年には雇傭従業者33.7%(沖縄県を除く全国は36.2%),家族従事者66.3%(同63.8%)であった。
これらのことから,昭和15~23年のあいだに激減したのは家族経営を中心とする零細工場であったことが分かる。これらのうち広島市の零細工場の多くは,爆心地に比較的近い住工混交地域に立地し,原爆投下によって事業の継続ができなくなったと推察される。実際,被爆前と被爆後の昭和20年11月1日時点において町内会ごとに調べた人口によると,爆心地から1.5キロメートル以上2キロメートル未満圏内では約6.5万人から約1.1万人へ減少したのに対し,1キロメートル未満圏内では約6.1万人から1,455人へ,1キロメートル以上1.5キロメートル未満圏内では約6.6万人から5,925人へ,それぞれ激減している6)。
にもかかわらず,常時雇用の職工5人以上の工場に関する限り,広島県全体では従業者数は致命的といえるほどには減少しなかったことが,その後の復旧・復興を下支えしたとみられる。もちろん常住(夜間)人口だけでなく,郊外や避難先から流入してくる人びとのことも考慮しておかなくてはならないが,被爆から1年後の昭和21年8月1日の中国新聞によると,そのころ「市外から広島市内に流入する昼間人口が激増し,次第に復興を盛り上げていった」と報道されている7)。
3 生産能力の下支え
このような広島県製造業の復旧・復興に寄与した要因として,そのほかに以下のような点があげられる。第1は,人的資源と並ぶ生産要素である資本,つまり機器・設備である。戦時中から終戦直後の「工業統計表」では原動機とその実馬力が集計されている。このうち操業中の電動機についてみると,昭和15(1940)年に全国では789万馬力であったが,同21年には991万馬力,26%増となっている。この間,広島県については14.4万馬力から13.4万馬力に約7%低下したものの,22年には16.1万馬力に回復している。
第2は,従業者のうちとくに職工の厚みである。当時の「工業統計表」では,従業者は職員,職工およびその他に分類され,職員はさらに事務員と技術員に区分されたうえで,それぞれ男女別の人数が記載されている。従業者数に占める職工の比率は,全国では戦前に80%台半ば,戦後は70%台後半であり,おおむね8割程度であった。一方,広島県では戦前に80%台後半であり,終戦直後に80%を少し割り込んだものの,昭和23年には再び80%を超えるなど,戦前・戦後ともに全国平均を数ポイント上回っていた。終戦直後の昭和20年ですら,46都道府県(沖縄県を除く)のうち広島県の順位は従業者数では第7位であったが,職工数では第6位であった。
第3は,職工のなかでも女性労働力による下支えである。職工のうち女性の比率は昭和15年には全国(沖縄県を除く)33.8%,広島県30.3%,同20年には全国34.6%,広島県31.1%であり,全国水準を下回っていた。ところが昭和15~20年の増減をみると,全国では職工は55%減,そのうち女性は54%減であり,男女ともに半数あまり減少したのに対し,広島県では職工は13%減,うち女性は11%減にとどまっている。広島県における女性の職工は20年の2万3,883人(職工全体の31.1%)から21年には1万5,835人(同22.8%)に減少したものの,22年に1万9,322人(同24.8%),23年に2万5,989人(同28.1%)に増加して15年の水準(2万6,723人)に戻している。
第4は,軍事施設の民間転換,特に製造業への比較的円滑な転換である。旧陸海軍の施設のうち連合国占領軍が使用しないものについては順次,民間への譲渡等が進められた。たとえば,陸軍運輸部金輪島工場(広島市)は三菱重工業広島造船所に,陸軍糧秣支廠(同)は広島糧工に,呉海軍工廠(呉市)は尼崎製鉄,播磨造船,日亜製鋼,アメリカ資本のNBCに,広第11海軍航空廠(同)は川南工業,東洋パルプに,それぞれ貸与された8)。このような転換は昭和23年ごろまでに完了した9)。
4 製造業の生産性
表6―2は,昭和15~23(1940~48)年における広島県の製造業について,労働生産性(従業者1人当たり生産額)や資本装備率(従業者1人当たり電動機操業実馬力)を整理し,全国水準と比較したものである。これから,次の点が指摘される。
第1に,広島県の製造業は基幹産業であったとはいえ,個々の事業所の規模はあまり大きくはなかった。戦前には1工場当たりの従業者数は30人程度であり,全国平均の90%前後の水準にとどまっていた。戦後になると1工場当たり40人を超え,全国平均を上回るものとなった。
第2に,製造業は広島県の基幹産業であるといっても,人口千人当たり製造業従業者数は,戦前・終戦直後を通じてせいぜい50人台であった。戦前には沖縄県を除く全国平均の90%以下の水準であったが(旧陸海軍工廠の数値は含まれない),戦後にようやく全国平均を上回るようになった。
表6―2広島県の製造業の主要指標(昭和15~23年)
昭和15年 | 16年 | 17年 | 20年 | 21年 | 22年 | 23年 | |
1工場当たり従業者数(人) | 30.5 | 31.1 | 34.2 | 43.5 | 47.7 | 35.4 | 40.0 |
人口千人当たり従業者数(人) | 54.9 | 55.8 | 53.6 | 51.0 | 47.6 | 49.4 | 55.6 |
従業者数に占める職工比率(%) | 88.3 | 85.8 | 85.2 | 79.9 | 76.8 | 78.3 | 81.3 |
1工場当たり生産額(千円) | 136 | 149 | 155 | 337 | 1,060 | 2,596 | 6,998 |
人口1人当たり生産額(千円) | 0.24 | 0.27 | 0.24 | 0.40 | 1.06 | 3.62 | 9.71 |
従業者1人当たり生産額(千円) | 4.5 | 4.8 | 4.5 | 7.8 | 22.2 | 73.3 | 174.8 |
1工場当たり電動機操業実馬力(馬力) | 43.9 | 55.9 | 58.1 | 欠測 | 70.6 | 57.4 | 95.2 |
従業者1人当たり電動機操業実馬力(馬力) | 1.44 | 1.80 | 1.70 | 欠測 | 1.48 | 1.62 | 2.38 |
1工場当たり従業者数(全国100) | 91.3 | 92.1 | 89.3 | 113.9 | 121.5 | 107.1 | 109.2 |
人口千人当たり従業者数(全国100) | 87.2 | 87.8 | 81.1 | 164.2 | 104.2 | 106.7 | 120.9 |
従業者数に占める職工比率(全国100) | 103.5 | 102.5 | 103.3 | 103.2 | 100.4 | 101.8 | 101.7 |
1工場当たり生産額(全国100) | 67.4 | 65.7 | 60.1 | 53.4 | 104.6 | 94.6 | 85.0 |
人口1人当たり生産額(全国100) | 64.4 | 62.6 | 54.6 | 77.0 | 89.7 | 94.3 | 94.1 |
従業者1人当たり生産額(全国100) | 73.8 | 71.3 | 67.3 | 46.9 | 86.1 | 88.4 | 77.9 |
1工場当たり電動機操業実馬力(全国100) | 75.0 | 82.5 | 85.1 | 欠測 | 60.6 | 86.3 | 122.7 |
従業者1人当たり電動操業実馬力(全国100) | 82.2 | 80.5 | 95.4 | 欠測 | 49.9 | 80.6 | 112.3 |
第3に,工場当たり,人口当たり,あるいは従業者当たりでみた広島県の生産額は,全国平均に比較して全般に低い。いいかえれば生産性はあまり高くなかった。この問題については,産業構造の問題を考慮する必要があるが,もう1つ,人的資源と機器・設備の点からも考えることができる。
経済成長,いいかえれば労働生産性の成長は,労働,資本および知識・技術の組み合わせによってもたらされる。知識・技術要因を無視すれば,結局は従業者当たりの資本ストックの水準によって決まることになる。広島県の場合,みてきたように従業者数は比較的早く戦前水準に回復した半面,昭和21~22年の電動機操業実馬力は16~17年の水準を下回った。つまり,分母が相対的に大きくなった結果,21~22年の資本装備率(従業者1人当たり電動機操業実馬力)は全国の50~80%の水準にとどまり,労働生産性(従業者1人当たり生産額)も全国平均の80%台となっている。ただし,昭和23年の資本装備率は全国平均を12ポイント上回る水準に上昇しており,その後の成長を予感させる。
5 社会資本インフラの復旧と整備
昭和20(1945)年8月6日の原爆投下によって爆心地とその周辺は廃墟と化したが,その粉塵も収まらないうちに,道路,鉄道,電力などの社会資本インフラの復旧が始められた。これはいうまでもなく当初は軍事・防衛,被災者救援,医療・衛生などを目的としたものであったが,移動手段や輸送手段が少しずつ復旧していくことで,産業経済再建の基盤となっていった。被爆直後における主要インフラの復旧状況は以下のようなものである。
道路については,被爆後まもなく軍隊や警防団によって「市内の主要幹線道路の清掃・啓開」10)が行われた。鉄道については,6日当日午後には広島駅と西条駅(東広島市)の間で折り返し運転が行われ,被災者の避難と救援派遣に供された。復旧作業は「徹宵の努力でもって」11)進められ,7日には広島駅と宇品港をつなぐ宇品線,8日には幹線の山陽線,9日には県北地域をつなぐ芸備線がそれぞれ開通し,少し遅れて8月18日ごろには郊外をつなぐ可部線が全線開通した。
市内路面電車は当時の保有車両123両のうち15両,うち完全可動車両は3両を残すだけという壊滅的な被害を被った。しかし,9日には一部区間(西天満町~己斐)で片側運転が始められた。「部分的ながらも電車の早期復旧は萎縮しがちな市民に大きな活力を与えた」12)とされる。また,9日には被災を免れたバス2台を使って,広島駅~比治山~宇品港間の運行が開始された。
原爆投下とともに広島市全域で停電が発生した。しかし,比治山(標高約70メートル)の陰になったおかげで被害が比較的小さかった段原変電所を応急修理し,翌7日には軍事施設のある宇品方面,8日には広島駅周辺などへの送電が開始された。一方,爆心地から約2キロメートル離れた牛田浄水場の被害は軽微であり,市内中心部で送水管の破損による漏水がみられたものの,断水することなく給水が続けられた。
被爆1年後の昭和21年8月になると,広島は活況を取り戻しつつあり,国鉄・電車の1日の利用者数は合計で6.5万人に達したという。主要駅の利用者数は広島駅約4万人,横川駅約8,000人,己斐駅約4,000人,郊外電車宮島線の西広島駅約1万3,000人などとなっている13)。
このような社会資本インフラをはじめとする都市づくりを計画的に推進していくため,昭和21年ならびに24年に広島復興都市計画が策定された。昭和24年には広島平和記念都市建設法が施行され,これを受けて同27年に広島平和記念都市建設計画が決定された。
注・参考文献
1) 当時の主要工場では多数の犠牲者が出た半面,施設の被害は比較的軽微であった。たとえば三菱重工業広島機械製作所と 広島造船所は,それぞれ爆心地から4km 前後の距離にあったが,「建物の被害も全体の約 30%にとどまり,機械設備の損傷 は皆無に近い状態」であった。爆心地から約 5.5km 離れた三菱重工業第 20 製作所については「窓ガラスが吹っ飛び,木造建 物の一部が倒れた程度」であり,被爆翌日から「ただちに戦時生産が再開された」という。爆心地から約 5.3 km離れた東洋 工業については「強烈な爆風で工場の屋根は吹きあげられ,窓ガラスはほとんど破損,窓枠は曲り,建物若干が倒壊した」 ものの,「総体的な被害率は小破で約 30%程度」であったとされる(広島市 1984 a,13 – 22 頁,一部改変して引用)。
2) 連合国は,わが国に対して現物による1回限りの戦争賠償を要求した。主要工場の機器・設備を撤去して,わが国の生産 力を昭和5~9年水準に引き下げることとされ,広島地域では,日本製鋼所広島工場,帝国兵器羽衣製作所,東洋製罐,東 洋工業,三菱重工業広島工作機械製作所などが賠償対象の候補とされた。最終的に全国で 1.6 億ドル相当の施設が処分された。 しかし,東西冷戦の対立がしだいに顕在化していくなかで,賠償問題は昭和 24 年5月に事実上立ち消えとなった。広島市(1984 a,63 – 79 頁)では,この報道に接して「広島でも大いに愁眉を開くものとなった」と表現している。
3) 広島市『広島新史 資料編IV』,広島市,1984 年b 470 頁以降。
4) 広島市『広島新史 資料編IV』,広島市,1984 年b 324 頁。一部は昭和 25 年と 30 年の補足推計。
5) 酉水孜郎編『資料 国土計画』,大明堂,1975 年 当時市域。
6) 広島市『広島原爆戦災史 第1巻 総説』,広島市,1971 年a 621 頁。
7) 広島市『広島原爆戦災史 第1巻 総説』,広島市,1971 年a 621 頁。
8) 機器・設備が復旧しても,戦前と同じものをすぐに生産したわけではない。なかでも新造船が規制されていた造船業の復興は「前途暗澹たるもの」であり,三菱重工業広島造船所(広島市)では鍋や釜のほか,鋤や鍬などを造り,日立造船因島・ 向島工場(現尾道市)では寺院の梵鐘を製造した。当時の造船業は「ナベ・カマ時代」と呼ばれたという(広島県 1983,173 頁)。
9) 広島県『広島県史 現代』(通史VII),広島県,1983 年 22 ~ 23 頁。
10) 広島市『広島原爆戦災史 第1巻 総説』,広島市,1971 年a 586 頁。
11) 広島市『広島原爆戦災史 第1巻 総説』,広島市,1971 年a 586 頁。
12) 広島市『広島原爆戦災史 第1巻 総説』,広島市,1971 年a 587 頁。
13) 広島市『広島原爆戦災史 第1巻 総説』,広島市,1971 年a 621 頁。