Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1コラム:爆心地で路面電車が動き出す
1 開業から被爆時までの状況
大正元(1912)年11月23日の広島電鉄(以下「広電」という。)の開業当日は,駅前(現・広島駅)~紙屋町(現・紙屋町交差点付近)~御幸橋西詰(現・御幸橋)間と八丁堀~白島間が開通した。少し遅れて12月8日には紙屋町~己斐(現・西広島)間が開通している。その後,大正4年4月8日には御幸橋東詰(のちの専売局前,その後廃止)から向宇品口(現・元宇品口)までの路線(宇品線)が開通し,さらに大正8年5月には御幸橋の上流側に電車専用橋ができて,駅前から紙屋町を通り向宇品口までの路線が一本でつながった。また大正6年11月1日には横川線が単線で開通した。その後,軍の要請により,工員輸送のための江波線,兵員輸送のための比治山線(現・皆実線)が昭和19(1944)年に開通した。とくに物資の不足していた時期に敷設された比治山線は,当時の宮島線の電車廿日市(現・広電廿日市)~電車宮島(現・広電宮島口)間のレールをはがして単線化し,そのレールを使って複線での運行を開始した。
2 原爆投下直前の状況
原爆投下当時の公共交通機関は、路面電車と小さなバスであった。当時広島市内の電車の数は123両,バスは100台を保有していた。しかし戦時下,国の指導により電車とバスの路線が重なる路線については,バスの運行は中止され,それに加えて原爆投下時には燃料不足や修理部品などの不足のため,実際に動いていたバスは20台にも満たないほどであった。
また,戦時中は当局から一部の電停の使用を禁止されていたり,緊急性のない人びとには電車の利用を自粛させていた。それは広島だけではなく全国で見られた状況であった。また,いざとなったときに緊急車両の通行に障害が出ないようにするため,島状電停の利用停止・撤去も当局の方針として通達が出ていたが,実施が間に合わず終戦となった経緯がある。
つまり現在でいう公共交通機関は,贅沢なものであるとのことで緊急を要する者以外は利用しづらい風潮があった。このような状況のなか,路面電車のなかには車内のいすが撤去され,竹で作った手すりが取り付けられ,乗客はそれをつかんで乗車していた車両もあった。
さらに,戦争が激化し男手が不足してくると,それを補う形で昭和18(1943)年4月には広島電鉄家政女学校が皆実町に開校した。当初は学びながら電車に車掌として乗務をしていたが,戦争がさらに激しさを増し,いよいよ男手が不足してくると,女学生にも運転をさせるようになっていった。
3 原爆投下時の状況と復興
原爆投下により,123両あった路面電車の被害は108両。うち全焼22両,半焼3両,大中小破83両という状況であった。電柱は842本のうち393本が被害を受け,10万2,400メートルの架線のうちの被害は9万4,350メートル。またバスは保有100台のうち被害は全焼19台,全壊13台,中小破は36台で被害数は合計68台であった。そのほか建物や施設の被害などもあり,広島市内の全路線が不通となった。
このような状況のなか,原爆投下後3日目となる8月9日には,被害の少なかった広島市西部の己斐~西天満町(現・天満町付近)間に,やはり被害の少なかった宮島線に疎開していた車両を使い,廿日市の変電所からの電気を得て,復興の兆しとなる一番電車が乗客を乗せて走った。実際にはその前日に,広電の関係者や行政・軍関係の人を乗せて試運転をしていた。また9日からの運転は,単線での復旧のため2両の電車がつながって走った。そしてお金のない人には運賃を取らずに乗車させた。被爆した荒野のようなところを走った路面電車の存在は,広島市民に多くの勇気を与えたと伝えられる。また電車だけではなく,8月8日には動けるバスが2台ほど,千田町から紙屋町を通り広島駅へ無料で運行したとの証言もあり,千田町にある広電本社から紙屋町付近を走る姿をうかがうことができたという。
予想をはるかに超えた原爆の被害のあと,当初,広電はもちろん軍(陸軍東京電信隊)も出動して復興に努めた。重機の不足を補うため,戦車も出動して復旧に当たったとのことである。人びとの献身的な努力により,8月15日には電車は西天満町からさらに東の小網町まで単線ながら復旧した。そして復興の足音が聞こえ始めていた矢先の9月17日に,ふたたび広島を大きな災害が襲った。それは枕崎台風と呼ばれる大型の台風で,県西部では山津波も発生している。この台風の被害は甚大で,広島市内では原爆に耐えた橋も流された。電車専用橋である天満橋,横川橋,稲荷橋がそれである。原爆投下後の復旧のさなか,台風の襲来は復旧のスピードにブレーキをかけたのは間違いなかったと思われる。
さて8月15日の終戦,そして9月17日の台風の被害を経て広島の復興は本格的に始まることとなる。終戦により軍もいないなかで,広電のスタッフが中心となっての復興となる。
終戦間もない8月18日には千田町にある発電機が復旧し,宇品線の電鉄前(現・広電本社前)~向宇品口間の運行が始まり,翌日の8月19日には本線の己斐から土橋まで,また21日には十日市町,23日には左官町(現・本川町),そして9月7日には八丁堀まで復旧していった。しかしそのころは運転を再開していても,漏電や架線の切断などのため,たびたび電車が止まることがあった。また,運行可能な車両も10両程度しかなく,窓ガラスなどは調達できないので,窓の部分に板を張り付けた電車も運行していた。その後9月12日には電鉄前~紙屋町間が復旧し,10月11日には駅前まで復旧した。しかし,まだ単線の状態での復旧だった。
そして約2年後の昭和22(1947)年11月1日には江波線の土橋~江波(現・舟入南町)間,昭和23年7月1日には比治山線の的場町~専売局前間が復旧した。その後,枕崎台風で流された横川橋の復旧もあり12月18日には横川線の三篠(現・横川駅)~別院前間が復旧した。また,白島線については都市計画のための道路建設の関係もあり,昭和27年6月10日に軌道を移設した新しい路線で再開された。このときをもって,広島市内の路面電車網はとりあえずすべてが復旧したことになる。
ところで,被爆当時123両あった車両のうち108両が被災したが,そのうち27両が廃車となり,被害がなかったものも含め96両の復旧を行い,昭和25年には車両の復旧等すべてが完了した。これら車両の復旧は主に広電社内の工場(千田車庫内)を中心として行われてきたが,それだけではとても間に合わない。そこで作業の多くが外注された。外注先の主なものは,宇品造船所や暁造船所(いずれの造船所も現在存在していない。)との記録が残っている。それら造船所を中心とした外注先が,電車復旧への協力企業として存在していたということである。こうしてなんとか,広島の街にふたたび電車を走らせようとする努力が実り,みごとに原状復旧を果たしている。
その後,昭和40年代のモータリゼーションでは,路面電車の存続の危機が起こり,全国で廃止する都市が多くでたが,さまざまな努力でそれを乗り越えてきた。そして今では,人にやさしい最先端の路面電車である超低床車両の導入にも積極的に取り組み,その車両の導入の数もわが国で一番多く,名実ともに日本の都市の中での「路面電車王国」の地位を確立し,現在に至っている。
(加藤 一孝)
注・参考文献
・広島電鉄株式会社『広島電鉄開業80・創立50年史』(広島電鉄株式会社,1992年)
・広島電鉄株式会社『広島電鉄開業100・創立70年史』(広島電鉄株式会社,2012年)
・長船友則『広電が走る街今昔』(JTBパブリッシング,2005年6月)
・広島電鉄社内報「輪苑」昭和24年第39号,29年第58号,29年第91号他
・広島復興局経理課長あて施設復興状況調査報告(昭和22年9月3日付他)
・その他昭和19年郊外線広島発着バス時刻表他多数