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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1III 公的医療機関の動向

1 昭和20年代後半の公的病院

昭和25(1950)年から29年に存在した広島県内の駐留軍接収を除く公的病院は,74機関と多くを数える。31)財政難が続くなかで多くの病院が存在し得たのは,県民の要望を受けた行政などが軍関係病院や医療団病院を転用して国立病院,広島県立医科大学附属医院,県立病院などを開院したこと,医療保険の実施を実のあるものにするために市町村や健康保険団体,農村医療の充実に農業協同組合,従業員の健康維持のために企業が病院の経営に乗り出したことによる。これらの病院のなかには広島市など戦災都市へ立地したものも多いが,それにおとらず農村部に満遍なく配置されたという面もみられる。

昭和20年代後半に広島市に開院した医療機関として特筆すべきは,社会保険広島市民病院である。広島市にとって市民病院の開院は戦前からの懸案であったが,原子爆弾により市街地が灰燼となり,多年の希望を実現することは困難となった。それでも23年には,11月22日に開かれた市議会厚生委員会において市当局に対し,「保健課でその構想をねられるやう,研究調査されたいと要望」が出されるなど32),市民病院開院の動きが再燃することになる。しかしながら24年になると財政難はさらに深刻化し,「起債は市民病院となるとむつかしい」ということで,これ以上具体化することはなかった33)。

広島市の困難な医療状況を認識していた広島県は,厚生省が政府管掌健康保険の被保険者診療のために建設している社会保険病院を広島市に誘致することにし,申請書を提出した。厚生省より社会保険病院設置資料の提出を求められた広島市は,広島市舟入病院の再編成によって対応すると回答した。これに対して厚生省の意向を受けた広島県は,昭和25年3月25日,「1敷地は,市の中央部で交通至便な場所約2~3,000坪を提出されたい」,「2創設費は,(医療器具を含む。)総額2,000万円」などの4条件を提示した34)。

これを受けた広島市は社会保険病院を開設する意向を固め,ただちに候補地の選定を行い,1舟入病院敷地,2基町(緑地,その後の病院敷地),3基町(緑地,市営住宅など),4大手町小学校建設予定地を提示した。昭和24年8月15日に広島県出身の安田巌厚生省保険局長の視察が行われ,2のその後の病院敷地が最適との結論に至った。ところが同地は,同26年に広島県を中心に開催される第6回国民体育大会のサッカー場に予定されており,「基町サッカー場を決める迄には相当検討してあそこに決定し」たのであり,国体誘致の附帯条件にもなっているなど,反対意見も強かった35)。しかし交通に恵まれた「病院としては,まことに理想的な敷地」という立地条件は換え難いものであり36),10月17日に広島市は厚生省に2に決定したことを伝えた。

難問とみられた敷地問題が解決し社会保険病院計画は進展し,昭和26年1月21日,「社会保険病院建設に関する覚書」が交換された37)。これによると敷地は広島市の責任において基町1番地に4,000坪確保すること,建設費については厚生省が26年度に3,000万円を限度として支出すること,病院経営はすべて市長が行うなどとなっている。

昭和26年4月18日に開始した工事は玄関棟,診療棟,管理棟などを建設し,1年2か月後の27年6月30日に完成した。そして2か月たらずの準備を経て8月11日に社会保険広島市民病院という名称で開院した。開院時,4診療科・89床,職員定数59人という小規模な病院として出発した市民病院は,その後にしだいに施設・陣容を整備し広島市を代表する医療機関の一つに数えられるようになった。

2 昭和30年代の公的病院

昭和30年代に広島県内に存在した公的病院は85機関であり38),20年代後半に比較して11か所増加したにすぎない。戦後に大きく改革された医療制度の影響が一段落したことによるが,それでも少数ではあるが,引き続き町村立国保病院,農業協同組合や共済組合,企業の経営する病院の開院がみられる。また労働福祉事業団の経営する中国労災病院,生活協同組合の経営する福島病院,医師会の経営する呉市医師会病院など,高度経済成長に伴い新たな性格の病院が出現している。なお,このように病院数の増加が一段落するなかで,都市部の病院を中心に,増床がなされている。

昭和32(1957)年10月1日の広島大学医学部の広島市への移転と,それに伴い実施された31年9月30日の国立療養所広島病院の閉鎖および翌10月1日の国立呉病院の開院は,広島県の「新たな医療体制を確立した」と述べられるほど大きな影響を与えた39)。その原動力となった広島大学医学部の前身の広島県立医学専門学校(広島医専)は,多年にわたる医学校開校を求める県民の期待を担って,昭和20年2月13日に認可された。そして8月5日に開校式を行い,当日のうちに高田郡小田村の高林坊に疎開した。このため教職員と学生のほとんどは,8月6日の原爆の惨禍を免れ,8月8日には入学式を挙行し授業を開始した。しかしながら皆実町の校舎(元広島県師範学校跡)と水主町の附属医院(旧県立広島病院を昭和20年4月1日に移管)は原爆によって焼失,広島市に帰る場を失った。

このため広島医専は昭和20年12月6日に賀茂郡安浦町の旧安浦海兵団跡に移転し授業を再開した。とはいえ医学教育施設が少なく,このままでは医科大学昇格はかなわず廃校に追い込まれると考えた広島県は,旧海軍の病院施設が残っている呉市に協力を求めた。これに対し,「敗戦に伴い海軍という存在基盤を失った呉市は,旧海軍施設の平和施設への転換を目指した」こともあり,即座に協力を約束した40)。こうして校舎や附属医院の整備が行われ,昭和23年3月10日に広島県立医科大学として開設が認可され,4月1日に呉市に開学した。

安住の地を得た広島医大は,設備・陣容を整備し,昭和28年8月1日に広島大学医学部に移管された。そうしたなかで医学部内に,さらなる発展のためには広島市への移転が必要であるという考えが強まった。これに対し呉市は,「文化都市呉市の象徴」である広島大学医学部を「是非引続き当市に存置の上,拡充強化下さるよう」に関係機関に陳情した41)。

結局,この問題は国立病院を呉市に誘致し,広町にある附属病院を分院として残すことで決着,昭和31年9月30日に国立療養所広島病院を閉鎖し,同年6月に英連邦朝鮮派遣軍から返還された旧呉海軍病院の施設に広島病院の職員・入院患者を移転し,新たに国立呉病院が開院した。翌32年9月30日,広島大学医学部と附属病院が広島市霞町に移転,これを契機として広島県の医療の中心は呉市から広島市に交替したのであった。

3 昭和40年代の公的病院

昭和40年代に存在した公的病院は75機関と,30年代に比較して9機関減少した42)。全体として医療機関数が増加しているなかでのこうした現象は,私立病院の拡張とともに結核専門の県立病院,過疎地域の町村立病院や国保病院の廃院に起因する。

医療機関が減少を示すなかで,人口増加地区の広島市の近郊の安佐郡には,昭和46(1971年に安佐医療生活協同組合安佐協同病院が開院しているが,こうした傾向は昭和50年以降に顕著になる。また医療機関数は変わらないが,広島市をはじめとする都市部の公的病院は,大部分が病床数を拡大するなど大規模化を達成している。このような都市と近郊への医療機関の集中は,私立医療機関ではさらに顕著であり,過疎地における無医村の増加をもたらすことになる。


注・参考文献

31)前掲『広島県衛生統計年報』各年。

32)「第二十二回厚生委員会会議録」1948 年 11 月 22 日(広島市議会「厚生委員会会議録」1948 ~ 49 年)。 

33)「厚生委員会会議記録」1949 年2月 25 日(同前)。 

34)広島県民生部長より広島市長あて「社会保険病院建設について」1950 年3月 25 日(広島市議会所蔵)。 

35)「厚生委員会」1950 年8月 24 日(広島市議会「厚生委員会会議録」1950 年)。 

36)安田巌「創立の頃の思い出」(社会保険広島市民病院『病院 10 年誌』(1962 年)5頁。

37)社会保険広島市民病院『病院 20 年誌』(1972 年)13 頁。

38)前掲『広島県衛生統計年報』各年。

39)広島県眼科医会史編纂委員会編『広島県眼科医会史』(広島県眼科医会,1989 年)188 頁。

40)広島大学医学部五〇年史編纂委員会編『広島大学医学部五〇年史』通史編(広島大学医学部同窓会〈広仁会〉2000 年,96 頁)。

41)「陳情書」1955 年 10 月1日(呉市『広島大学医学部移転問題について』1955 年,29 頁)。

42)前掲『広島県衛生統計年報』各年。

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