Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1II 平和運動
1 占領期の平和運動
(1)被爆直後の原爆批判キャンペーン
日本政府は,原爆被爆直後の昭和20(1945)年8月10日,原爆の使用を国際法違反と断じ,その使用の中止をアメリカに要求した。さらに「終戦詔書」(8月14日付)でも原爆使用を「残虐ナル爆弾」との表現で取り上げている。日本の報道機関は,日本政府の原爆批判を報じるとともに,海外から伝わる原爆批判を逐一紹介した。さらに,8月下旬には,「爆心地域には今後70年間残留放射能のため人畜の生存は不可能」とする説(70年生物不毛説)を大々的に取り上げた。
日本政府の抗議,終戦詔書の言及それに8月下旬の原爆爆心地域70年生物不毛説の流布などの一連の動き(原爆批判キャンペーン)に,アメリカは敏感に反応した。当時のアメリカの新聞は,日本の海外向け放送が伝えるこうした情報の多くを取り上げ一つ一つ否定的な解説を加えて報じた。さらに,GHQのプレス・コード(9月19日指令)による日本の原爆報道への厳しい検閲を始めた。
この時期の原爆批判キャンペーンは,終戦までは報復心を煽り立てるという性格,それ以降は,国内的には日本の敗戦責任を原爆に転嫁し,対外的には日本の戦争責任を不問に付すという性格を内包したものであった。一方,アメリカの原爆情報対策は,日本政府・軍部のそうした意図をくじきはしたが,同時に原爆被害情報の隠ぺいや歪曲をもたらす結果を招いた。
(2)世界連邦運動
こうし広島市の平和祭(9-I-1参照)は,被爆体験に基づく平和運動の嚆矢といえるものであった。平和宣言などを通じ,広島から発信される市民の平和への願いは,海外に大きな反響を巻き起こした。世界のさまざまな平和の潮流が被爆地に関心を寄せたが,そのなかには,被爆地に強い影響力を持つことになる潮流もあった。占領期の代表的なものとしては,世界連邦運動と平和擁護運動をあげることができる。
世界連邦運動は,戦争の無い世界は,世界政府を樹立して,各国の主権の一部を世界政府に移譲し,各国の軍備を撤去することにより実現されるという思想に基づく運動である。日本では昭和23(1948)年8月6日に東京で世界連邦建設同盟が創設された。広島では,濱井信三市長や楠瀬常猪県知事もこの運動の賛同者であり,昭和24年10月にはトルーマン米国大統領に「世界平和機構」の確立指導を請願する署名運動が展開され市民10万人の署名が集められた。また,昭和27年には,11月3日から4日間,広島市で世界連邦アジア会議が開催された。この会議は,世界連邦運動としては,アジアで開催する初めての国際会議であり,広島にとっては,戦後初の本格的な国際平和会議であった。参加者は,アジア8か国,欧米14か国の計22か国の代表51人と日本側代表263人,オブザーバー400人という大規模なものであり,アインシュタイン,ラッセルほか31か国170余人の人びとが会議へメッセージを寄せた。最終日の広島宣言には決議で「原子兵器の製造ならびに使用を禁止する」が,また各国政府への勧告で「原爆被害状況の写真ならびに研究成果の発表を自由にする」という文言が盛り込まれている。
昭和25年10月14日に京都府綾部市が世界連邦都市宣言を行って以降,国内に同様の宣言が広まった。広島でも広島市議会(「世界連邦都市宣言についての決議」昭和29年10月30日),広島県議会(「(平和県に関する)宣言」(=世界連邦都市宣言)昭和34年3月18日)が宣言している。広島県のものは県レベルでは全国で6番目にあたる。また,初期の宣言には,核兵器への言及が含まれていないが,広島県の宣言は,「核兵器を禁止し,世界の恒久平和を実現するため世界連邦建設の趣旨に賛同」と核兵器禁止の態度を明示した。なお,広島県内では,昭和29年の広島市が最初で全国では5番目であった(『世界連邦運動ヒロシマ25年史』)。
(3)平和擁護運動
昭和24(1949)年は,戦後の米ソの対立=冷たい戦争が一つの転換点にたった年である。4月にトルーマン米国大統領が,「原子兵器の使用を決定することをためらわない」と発言した。社会主義陣営では,9月にソ連が原爆保有を発表し,世界に大きな衝撃を与えた。また,10月には,アジアで中華人民共和国が成立し,ヨーロッパではドイツ共和国(東ドイツ)が生まれた。一方,この年の4月,パリとプラハで第1回平和擁護世界大会が開かれ,「平和はたたかいとらねばならない」とする世界的な広がりを持つ平和擁護運動が生まれた。日本でも,10月2日に国際平和デーの一環として東京で平和擁護日本大会が開催された。東京大会では原子兵器への言及はなかったが,これに呼応して開かれた広島大会の宣言は「人類史上の最初に原子爆弾の惨禍を経験した広島市民として“原子兵器の廃棄”を要求します」と結んでいる。これ以後,国内における原子兵器禁止の声が急速に広がり,ストックホルム・アピール(昭和25年3月19日)支持署名運動では原爆被害を前面に掲げた運動が繰り広げられた。広島市内中心部に設けられた同アピール署名場に「原爆の日の惨状」を写した数枚の写真が展示(『アカハタ』昭和25年5月27日)され,『平和戦線』(共産党中国地方委員会機関紙)6月9日号は,広島の被爆直後の写真6枚を掲載し,丸木位里・赤松俊子の「原爆の図」展が全国各地で開催された(『原爆の図』)。被爆体験は,これ以後,原子兵器禁止運動の中で重要な役割を果たすこととなる。
2 原水爆禁止運動
(1)市民運動と被爆体験
広島平和問題談話会は,昭和26(1951)年10月に濱井市長らをまじえて発足した民間団体である。この会の提唱のもとに平和市民大会を昭和27年8月6日に開催するための委員会が組織された。その準備段階で破防法粉砕をスローガンとするかどうかで,委員の間に意見の不一致が生じたが,結局「広島の惨劇をくりかえすな」,「戦争反対,平和憲法を守れ」,「朝鮮戦争の即時停止」「世界の人々よ平和の闘いに団結せよ」の4つのスローガンにしぼって統一集会が開かれることとなった。平和市民大会は,8月6日の平和式典終了後に開催された。参加者は2,000人弱であったが,市民団体主催として初めての屋外集会であり,原子兵器の製造と使用の禁止などを訴えた宣言を決議している。昭和28年8月6日には,県労・地区労・総評ほか48団体が主催する広島平和国民大会が広島市民広場で開催され,全国22団体950人の代表と広島県内22団体の6,630人が参加した。大会で「原爆使用禁止」「再軍備,軍事基地反対」「原爆犠牲者の生活安定」など13項目のスローガンを承認した後,1,500メートルの隊列で慰霊碑前まで行進している。
以上のように,広島では,ビキニ水爆被災事件以前に,被爆体験が原水爆禁止の課題と結びつき,大きな運動へと成長し始めていたのである。
(2)原水爆禁止世界大会
昭和29(1954)年3月のビキニ水爆被災事件以降,日本では,原水爆禁止を求める決議・署名・集会など多様な形態の運動が自然発生的に展開された。署名運動は,平和擁護運動ですでに経験された運動形態であるが,国会・県市町村議会の決議は,以前には見られなかった現象である。議会の禁止決議は,10月22日の長崎県議会の決議で46都道府県の決議が揃い,22日現在で169市92町村に及んだ。このような運動の高揚を背景として,昭和30年8月に広島で原水爆禁止世界大会が開催された。この大会は,翌年以降の開催を予定していたわけではなかったが,この大会を契機に,毎年継続的に開催されるようになった。
昭和30年の大会(第1回)の議論の中心は,原水爆被害問題と米軍基地問題であった。このうち,前者とくに原爆被害者救援問題は,開催地である広島の準備会が積極的に取り組んだ問題であった。これは,第2回大会以降も原水爆禁止の課題と並ぶ重要な課題として定着した。一方,後者は,各地の大会代表により持ち込まれたものである。第2回大会では,原水爆禁止運動と基地反対・沖縄支援闘争・護憲運動・日ソ国交回復運動との有機的関連の検討を目的とした分科会が設定されている。この事実は,大会の基盤にさまざまな平和運動が存在していることを示すものであると同時に,大会が,こうした平和運動の結節点の役割を果たしていた証拠でもあろう。このような大会のあり方は,一面では,その継続開催を保障するものであったが,他面では,大会批判への原因となった。その後,日本の原水爆禁止運動は,安保条約の評価をめぐり自民党・民社党などが離れ(第5回大会),昭和36年には民社党を中心に核兵器禁止平和建設国民会議(核禁会議)が結成された。また,社会主義国の核実験や部分的核実験禁止条約(第9回大会)の評価をめぐって,社会党や総評などが,別に大会を開催するようになり,昭和40年には原水爆禁止日本国民会議(原水禁)を結成した。それまで,原水爆禁止日本協議会(原水協,昭和30年9月結成)を中心に開始されていた大会は,原水協・核禁会議・原水禁の3団体により別個に開催されることとなった。
ところで,昭和38年の部分的核実験禁止条約の締結は,世界の原水爆禁止運動に大きな影響を与えていた。核兵器反対の大行進として知られていたイギリスのオールダーマストン行進は,昭和39年から姿を消している。しかし,日本では,この条約締結が運動の分裂の原因とはなったが,これを契機に運動が消滅することはなかった。その理由には,アメリカの原子力潜水艦の寄港問題および中国核実験という日本を取り巻く核状況の重大な変化をあげることができる。3つに分裂した潮流に課題や運動の進め方に違いはあったが,いずれも,原水爆禁止に加えて原爆被爆者援護の課題を掲げて原爆記念日前後に大会を開催するという点では一致している。
広島県議会は昭和30年7月1日,8月に開催される原水爆禁止世界大会を支持する決議を採択,広島市議会も7月28日,同様の決議を行った。こうした被爆地の自治体として世界大会に寄せる期待は,第4回・第5回大会についてもみられた(広島市議会が昭和33年7月2日,昭和34年6月15日の支持決議)が,第5回世界大会の混乱を契機に支持の動きは消え,逆の動きが起こる。広島県議会の「原爆犠牲者の大慰霊祭執行についての要望」(昭和34年12月15日),「原爆記念行事を厳粛荘厳に挙行することについての要望」(昭和39年3月23日)は,それぞれ第6回,第9回大会に対する地元からの批判的なメッセージと考えられる決議である。
(3)広島県内の非核・平和宣言
日本の国会・県議会あるいは市町村議会は,昭和29(1954)年以降,たびたび原水爆禁止や非核・平和の意志を表明してきた。広島県議会の場合,昭和29年5月の「原子兵器禁止並びに原子力の国際管理に関する決議」を皮切りに,昭和37年までほぼ毎年決議を行っている。原水爆禁止・核実験禁止・原水爆禁止世界大会支持など表現はさまざまであるが,こうした趣旨を盛り込んだ県内の市町村議会の決議は,その後も毎年継続し,確認できただけでも昭和29年以降昭和36年までの間に38件に及んでいる。ところが,部分核実験禁止条約が締結された昭和38年以降,県内の議会の決議レベルでの原水爆問題への関心は途絶えてしまった(昭和50年8月,広島県史編さん室調べ)。ふたたび,議会において決議レベルでの原水爆禁止への関心が現れるのは,昭和57年以降のことである。同年の全国的な反核運動の高揚のなかで,3月25日,広島県議会は,政府に「非核三原則はもとより,第2回国連特別総会において,核兵器廃絶を目指して最善の努力を尽くされるよう強く要望」した意見書を採択した。また,4月末までに県内の10市16町村の議会が同様の決議をしている。
昭和57年3月25日の安芸郡府中町・町議会の決議は,他の県市町村議会の決議の多くが,軍縮・反核の努力を主として国に求める内容であったのに対し,非核自治体宣言という自らの意志表明であった。このような形式の議会決議は,昭和35年前後に相次いだ平和都市宣言にその先例をみることができるが,府中町の宣言は,57年以降全国的に広まっている自治体決議では,全国で2番目という先駆的なものである。
(4)原爆慰霊碑前の座り込みと抗議電報
昭和32(1957)年3月25日から4月20日の間,吉川清,河本一郎ら4人が,クリスマス島英水爆実験中止を求め平和公園の原爆慰霊碑前で座り込みを実施した。当時来日していたインドの文化使節団のサラバイ舞踊団長は,参拝のため訪れた原爆慰霊碑前で座り込みに遭遇し,激励の挨拶のなかで「インドではガンジーがこのような方法をとりました」と語っている(森滝市郎「『座りこみ10年』の『前史』と理念」)。
こうした原爆慰霊碑前の核実験抗議の座り込みは昭和37年と昭和48年にも行われている。昭和37年4月20日に,森滝市郎原水禁広島協議会理事長と吉川清同常任理事が,米の核実験再開の動きに抗議する碑前の座り込みを開始した。この時には5月1日に打ち切りまでに延べ5,000人が参加するという盛り上がりを示した。昭和48年7月30日には,フランスの核実験に抗議する17団体130人による座り込みが実施され,8月29日までに6回行われた。8月27日のフランスの4回目の核実験に抗議する座り込みには,山田節男広島市長が途中約10分ほど参加し,注目を集めた。昭和48年以降,抗議の座り込みは,継続的な運動として定着するとともに広島県内外に広まっている。
核実験への抗議の意思表示は,核実験実施国の元首や駐日大使あての抗議電報という形でも行われた。広島市の場合,昭和43年9月9日のフランスの水爆実験に対する抗議電報以降,核実験への抗議電報を継続的に送り続けるようになった。
3 広島から世界へ
(1)広島被爆者の海外渡航
広島市内にある幟町教会の神父フーゴ・ラッサールは,昭和21(1946)年3月,イエズス会総会出席のためローマに旅立った。9月,ローマで教皇ピオ12世に謁見,広島の被爆体験を報告し,世界平和記念聖堂建設の意向を披歴した。教皇は,これに賛意をしめしただけでなく,これを祝福し,聖庁からの協力を約束した。総会後,彼は,ヨーロッパ,北米,南米を歴訪し,広島の惨状を報告し,昭和22年秋,日本に帰国した(『世界平和記念聖堂』)。
昭和23年には,広島のメソジスト系のキリスト者2人が相次いで渡米した。9月,広島女学院の院長松本卓夫は,流川町の校舎建設が一応完成したころ,容体が再び悪化し始めたので,療養のため渡米した。米国メソジスト教会世界伝道局の招きによるものであった。被爆者として渡米した最初の日本人のため,
「異常な好奇心の的になり,入院中はモルモット扱いされ,あちこちひねくり回されて,いろいろの治療を実験的に試みられた」(松本の表現)。しかし2か月余にわたる治療のおかげで健康を回復した。退院と共に被爆の体験を聞かせて欲しいという要望が諸学校,教会関係,ロータリークラブ等からあり,一か年半にわたり,米国・各州諸都市を講演のため歴訪した(『霊は人を生かす』)。
流川教会牧師の谷本清は,昭和15年にアメリカの大学を卒業しており,アメリカ国内に多くの友人・知人を持っていた。また,彼の名前が,ジョン・ハーシー(昭和21年5月)やUP特派員ルサフォード・ポーツ(昭和23年3月)の取材により,広く世界に紹介されていた。これらのことが縁で,彼は,アメリカのメソジスト協会ミッション・ボードの招請を受け,昭和23年10月に渡米した。昭和24年末までの15か月間,彼は,アメリカで,被爆体験を中心に講演を行った。それは,31州256都市の472の教会その他の団体で582回を数え,聴衆は約16万人にものぼった。彼のアメリカでの講演旅行は,昭和25年9月から8か月間,再び行われたが,この時の講演は,24州201都市242団体で295回を数え,聴衆は約5万6,200人であった(『広島原爆とアメリカ人』)。
海外渡航の困難な占領下で日本人多数に欧米渡航の機会を与えた国際運動があった。MRA(道徳復興)運動である。昭和25年3月24日,広島市を訪れたMRA本部からの派遣員2人は,6月の世界大会に楠瀬常猪広島県知事,濱井信三広島市長,川本精一広島市議会議長を招待することを伝え,「広島こそ現在の原子時代において世界平和への灯台であり,危険に対する警告となり,可能性に対しては道標となると固く信じている」と語った。MRAは60人を招待しており,戦後初の大型ミッションとなった。そのなかには,広島の3人のほかに,長崎市長・市議会議長・県知事の姿もあった。日本を旅立ったのは6月12日であった。世界大会は,6月16日~25日にMRA本部のあるスイスのコーで開催された。大会後,ミッションは,欧米の国々を訪問した後,9月4日に広島に帰国する(『日本の進路を決めた10年』)。留守中の広島では,開催予定の四回目の平和祭が中止となるという出来事が発生していた(9-I-1参照)。
昭和39年4月~7月の75日間,広島市在住の米国人平和運動家バーバラ・レイノルズの提唱により実現した広島・長崎世界平和巡礼団(松本卓夫(元広島女学院院長)団長ら40人)がアメリカ,カナダ,イギリス,フランス,ベルギー,東西両ドイツ,ソ連を歴訪した。広島の市民運動による海外への本格的な働きかけの始まりであった(『ヒロシマ巡礼バーバラ・レイノルズの生涯』)。
(2)広島・長崎市長の国連訪問と国連軍縮特別総会
1970年代半ば,国際的な平和運動や非同盟運動あるいは国連非政府組織(NGO)のなかでは,軍縮に対する関心が急速に高まり,日本に,大きな影響を与えた。日本原水協は,すでに第19回世界大会(昭和48(1973)年)のなかで,「核兵器開発・核軍拡競争がきわめて重大な,憂慮すべき局面」にあることを指摘し,核兵器完全禁止の国際協定締結を呼びかけ,翌昭和49年12月には,国連に代表団を派遣した。広島の平和式典で読み上げられる平和宣言のなかに国連が登場するのは昭和48年のことであるが,翌年には宣言のなかで「核兵器の全面禁止協定の早期成立」を求めた。
昭和50年8月1日,荒木武広島市長は,広島平和文化センターの平和文化推進審議会で国際連合訪問の意向を表明,翌昭和51年12月1日,広島・長崎両市長,大内五良広島県医師会長ら,国連本部でワルトハイム国連事務総長と会見し,三木武夫総理大臣の親書と『核兵器の廃絶と全面軍縮のために国連事務総長への要請』を手渡した。
昭和52年7月末から8月初めにかけ日本で国連NGO主催の「被爆の実相とその後遺・被爆者の実情に関する国際シンポジウム」が開催された。このシンポジウムは,翌年の第1回国連軍縮特別総会(SSDI)に向けて企画されたものであったが,被爆体験の国内外への普及という点で大きな画期となった。シンポジウムに向け,各地で被爆者調査が実施され,原爆被害の実情が改めて確認された。また,調査を通じて形成された各地の被爆者団体と反核団体の結合は,原水爆禁止運動の統一の基盤となるとともに,軍縮署名運動などの原動力となった。第1回総会(昭和53年)・第2回(昭和57年)の軍縮特別総会に向けた署名運動の署名数は,それぞれ1,800万人,2,370万人分であり,第2回総会に向けては,1,000近い地方議会が反核・軍縮の意見書あるいは決議を採択している。
第2回総会では特別総会でのNGOや研究機関代表の発言が79件あったが,日本関係では,「財団法人広島平和文化センター」(荒木武広島市長),「広島大学平和科学研究センター」(栗野鳳センター長),「第2回国連軍縮特別総会に核兵器完全禁止と軍縮を要請する国民運動推進連絡会議」,「長崎原爆被爆者対策協議会」の4団体の代表者が発言した(『(財)広島平和文化センター20年誌-センターの歩み』)。
4 原爆ドーム保存・被爆実態の解明・被爆体験継承
(1)原爆ドーム保存運動
戦後,原爆ドームについて,記念物等として残すべきという意見と,危険な建造物あるいは被爆の悲惨な思い出につながるなどの理由で取り壊すべきという意見があり,市民の間で繰り返し論議が起こっていた。しかし,市街地が復興し,被爆建物がしだいに姿を消していくなかで,保存を求める声が高まった。昭和39(1964)年12月22日,広島の3つの原水禁団体(原水協・原水禁・核禁会議)を含む11の平和団体代表は,濱井信三広島市長に原爆ドームの永久保存を要請した。この要請は,原水禁運動が分裂して以来初めての3団体の共同行動であった。市長は,11団体の要請に対し,「来年度予算案に調査研究費を計上して,専門家に保存方法を研究させる」と,初めて保存の意志を明らかにした。昭和41年7月11日には,広島市議会が原爆ドーム保存を全会一致で決議,8月6日には,濱井市長が改めてドーム保存の意志表示を行うとともに,工事費4,000万円を国内外の募金によって賄う方針を示した。
広島市の募金活動は,昭和41年11月から始められ,翌年3月に目標の4,000万円の突破が明らかになった。募金は,突破判明翌日の市長の打ち切り声明にもかかわらず以後も続き,募金総額は約6,620万円にのぼった。募金総件数1万1,159件のうち,8,728件(78.2%)約3,664万円(55.4%)は,広島県内を除く日本全国各地からの寄金であり,募金運動への延べ参加人数は130万人を超えた。
募金をもとにした保存工事は,昭和42年4月に始まり8月に完工した。広島市は,保存工事完工を記念して東京など主要6都市で「ヒロシマ原爆展」を開催するが,各地で大きな反響を呼んだ。東京会場,名古屋会場にはそれぞれ5万人の入場者があったと報じられている。
原爆ドーム保存募金とそれに続く原爆展の成功は,被爆の事実を前面にすえることにより,多くの人びとの原水爆禁止への関心を引き出すことが可能であることを明らかにした。その後,こうした運動が,返還被爆資料展(昭和48年)・被爆の記録を贈る運動(昭和52年)・10フィート運動(昭和55年)・原爆瓦(ヒロシマの碑)募金(昭和56年)・第2回原爆ドーム保存募金(平成元年)と繰り返し行われ,いずれも大きな成功をおさめている。
原爆ドームは,募金開始から30年後の平成8(1996)年12月に「人類史上初めて使用された核兵器の惨禍を如実に伝えるもの」であるとともに,「時代を越えて核兵器廃絶と世界恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑」(世界遺産リストの記載)との価値が認められ,「ヒロシマ・ピース・メモリアル(原爆ドーム)」との名称で世界文化遺産に登録された。これにより,原爆ドーム保存に寄せられた願いは,世界共通の願いとして受け継がれることとなった。
(2)被爆実態の解明と継承
1960年代半ば以降,広島では,原爆ドーム保存運動以外にも,原爆被爆の実態を明らかにし,社会や後世に伝え,残そうとする動きがみられた。昭和39(1964)年に始まる日本政府に原爆白書を作成することを求める原水爆白書作成運動は,行政や医学を含むさまざまな分野の資料への関心を高めるとともに埋もれていた数多くの資料の所在を明らかにした。
NHKは,テレビ番組で「カメラ・リポート・爆心半径500メートル」(中国地方向け,昭和41年8月3日),「現代の映像・軒先の閃光」(全国放送,昭和42年8月4日)を放映した。これを契機に始まった広島の原爆爆心地復元運動は,昭和43年3月以降,広島大学原爆放射能医学研究所の研究グループによる爆心追跡調査に発展し,昭和44年4月以降は,広島市による原爆被災復元事業として引き継がれた。この運動の中で行われた被爆地図復元作業では,市民から被爆の実態についての多数の証言を引き出すとともに,被爆死者の追悼などを目的としたさまざまな市民団体結成の契機となった。1960年代後半から戦災都市を中心に空襲被害の実態を掘り起こす動きが全国的に展開されるようになるが,爆心地復元運動は,こうした運動に方法論や思想面で少なからぬ影響を与えた。昭和50年6月から2か月間,NHKによる「市民の手で原爆の絵を残そう」との呼びかけは,多くの被爆者の共感を呼び,900枚の絵がNHKに寄せられた。これらの絵は,8月1日から6日まで広島平和記念館で展示されたのを皮切りに,その後国内外で被爆の実態を伝える役割を担い続けている。
出版物という形での被爆実態の解明と継承も活発となった。広島市や広島県などにより『広島原爆戦災誌』(全5巻)」(1971年),『広島・長崎の原爆災害』(1979年),『広島県史原爆資料編』(1972年)・『原爆三十年-広島県の戦後史』(1976年)・『広島県戦災史』(1988年)が出版されているが,その編集過程で厚生省援護局や県内市町村役場の原爆被災者名簿などの行政資料が発掘され,陸軍省調査団や都築正男の医学的調査など被爆直後の貴重な原爆資料が資料編という形で公開された。
昭和60年を中心に市内の官公庁・学校・企業や県内各地の被爆者団体による体験記集が多数発行された。それまで年間の手記出版点数は数百点であったが,昭和57年以降,1,000点を数えるようになった(『原爆手記掲載図書・雑誌総目録1945-1995』)。
(宇吹 暁)
注・参考文献
・世界連邦運動ヒロシマ 25 年史編集委員会(編)『世界連邦運動ヒロシマ 25 年史-第2回世界連邦平和促進宗教者大会記念』(世 界連邦建設同盟広島県協議会,1972 年)
・丸木位里・赤松俊子『画集普及版 原爆の図』(青木書店,1952 年)
・森滝市郎「『座りこみ 10 年』の『前史』と理念」(下畠準三(編集責任者)『ヒロシマ 核実験抗議座り込み 500 回の記録』(広島平和会館,1997 年)所収)
・石丸紀興『世界平和記念聖堂』(相模書房,1988 年)
・加藤裕子編『霊は人を生かす 松本卓夫の生涯』(新教出版社,1988 年) ・谷本清『広島原爆とアメリカ人』(日本放送協会,1976 年)
・バーゼル・エントウィッセル『日本の進路を決めた 10 年 国境を越えた平和のかけ橋』(ジャパンタイムス,1990 年)
・小谷瑞穂子『ヒロシマ巡礼 バーバラ・レイノルズの生涯』(筑摩書房,1995 年)
・広島市・長崎市(編)『国連訪問レポート・1976 -ヒロシマ・ナガサキ』(1977 年3月 31 日) ・広島市(編・刊)『ドームは呼びかける-原爆ドーム保存記念誌』(1967 年8月6日)
・朝日新聞東京本社企画部(編)『原爆ドーム保存工事完成記念・ヒロシマ原爆展』(1967 年9月5日)
・朝日新聞社本社企画部・広島平和記念資料館(編)『ヒロシマ原爆参考資料-原爆ドーム保存工事完成記念』(1968 年1月 15 日) ・志水清(編)『原爆爆心地』(日本放送出版協会,1969 年)
・ISDA・JNPC 出版委員会(編)『被爆の実相と被爆者の実情- 1977NGO 被爆問題シンポジウム報告書』(朝日イブニングニュース社,1978 年)
・NHK(編)『劫火を見た-市民の手で原爆の絵を』(日本放送出版協会,1975 年)
・広島市・長崎市編『広島・長崎の原爆災害』(岩波書店,1979 年)。504 頁
・宇吹暁(編著)『原爆手記掲載図書・雑誌総目録 1945 – 1995』(日外アソシエーツ,1999 年)