Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1コラム 広島市長の平和宣言
1 平和宣言とは
広島市の平和宣言は,昭和22(1947)年の第1回平和祭以来,昭和25年を除く毎年8月6日の平和記念式典で歴代市長により読み上げられてきた(昭和26年は「市長あいさつ」)。式典における平和宣言は,その年の広島や日本,世界が直面する平和の課題を掲げ,克服の道筋を国内や海外に発信してきた。広島市のホームページには「過去の平和宣言」が公開され1),その時どきの課題や時代背景を読み取ることができる。
2 歴代市長の平和宣言
(1)濱井信三(任期昭和22―30年)
昭和24(1949)年までの宣言は戦争の放棄と世界平和を強調する一方,核兵器を否定した記述はない。占領下で原爆に関する表現はプレス・コードにより厳しく制限された。昭和27年に講和条約発効で独立を回復すると,翌年に「原子爆弾がのこした罪悪の痕」という表現が登場するが,国内でも原爆や核への意識は低く,「平和確立」が強調された。
(2)渡辺忠雄(昭和30―34年)
昭和29(1954)年のビキニ被災事件をきっかけに原水禁運動が盛り上がるなか,初めて被爆者の原爆障害と放射能の危険性に言及し(昭和30年),核兵器の製造・使用禁止を訴えた(昭和33年)。
(3)濱井信三(昭和34―42年)
ほぼ毎年「核兵器の禁止」と「戦争の完全放棄」を訴え続けた。また米英ソによる部分的核実験停止条約締結の評価(昭和38(1963)年),ベトナム戦争への憂慮(昭和40,41年)など,国際情勢を踏まえた主張が登場した。
(4)山田節夫(昭和42―50年)
核兵器の「禁止」「廃棄」などに代わる訴えとして「廃絶」が初めて登場し(昭和45年),以後統一された。核抑止論批判(昭和43年),片仮名の「ヒロシマ」表記(昭和45年),国連・環境問題・平和研究の重要性の指摘(昭和47年),名指しでの核保有国批判(昭和48年)など,テーマが多様化・具体化・国際化した。
(5)荒木武(昭和50―平成3年)
米ソの核軍縮の停滞を反映して国連への言及が増えた。長崎市との連携(昭和50(1975)年),被爆者援護法制定要求(昭和55年),国際的平和研究機関設置の提唱(昭和57年),世界平和連帯都市市長会議開催(昭和59年),在外被爆者援護(平成2(1990)年)など,広島発の提言や活動が宣言に盛り込まれた。
(6)平岡敬(平成3―11年)
日本の植民地支配や戦争についてアジア・太平洋地域への謝罪(平成3年),北東アジアへの非核地帯設置(平成6年),被害と加害の両面からの戦争の直視(平成7年),「核の傘」に頼らない安全保障体制の模索(平成9年)など,日本の足元を問い直す提言を次々と行った。
(7)秋葉忠利(平成11年―23年)
初めて「です・ます」体で書かれ,被爆者への「感謝」を表現し,その役割を評価した(平成11(1999)年)。敵対国同士の「和解」(平成12年),世界の大学での広島・長崎講座の開講(平成13年),米国大統領の広島訪問(平成14,15年)を提言し,平成17年・22年の核不拡散条約再検討会議を念頭に平成32(2020)年までの核兵器廃絶の実現や核兵器禁止条約の締結を訴えた。
(8)松井一實(平成23年―)
「です・ます」体を継続するとともに,毎年,被爆体験談を公募し,平和宣言の前半で被爆体験を紹介している。また福島原発事故を受け,エネルギー政策の早急な見直しを求め続けるとともに,北朝鮮の非核化と北東アジア非核兵器地帯の創設(平成25(2013)年)を訴えている。
3 平和宣言の果たすべき役割
平和宣言の訴えは,細かく見ていくと,実は時代と共に変化してきていることが分かる。まず,占領下では「原爆」という言葉すら使用が避けられ,とにかく「平和」が強調された,という点に改めて驚かされる。
また,今日では定着している考えや訴えの多くが,平和宣言に初めて取り上げられたのは意外に遅い時期だった,という印象をうける。たとえば核兵器の「廃絶」という訴えが登場するのは被爆25年後。「長崎市との連携」は被爆30年後。「在外被爆者援護」は被爆45年後である。
また,初めてジャーナリスト出身者として市長になった平岡敬は,被爆の被害だけでなく,日本の戦争がもたらした加害についても初めて触れ,「核の傘」に依存しない安全保障体制を模索する必要性を投げかけるなど,それまでの平和宣言の枠組みを超える提言を行った。
21世紀に入り,国際情勢が多様化するにつれて,平和宣言に盛り込まれる内容も,ますます多様化している。秋葉忠利は,それまで以上に海外への発信を念頭におき,初めて英語版の平和宣言を自ら読み上げて画像をインターネット上で公開した。一方,初めての被爆2世市長である松井一實は,被爆者の高齢化とともに被爆体験の継承が困難になりつつある中,被爆体験談を募集して平和宣言に盛り込むという初めての試みを続けている。
時代は移り変わっても、平和宣言に期待される役割の重要さは、変わらないどころか、ますます重要になるだろう。広島市長が党派や立場を超え,平和宣言を通じて広島の「声」を世界に訴えることが,これからも求められている。
(水本 和実)
注・参考文献
1)広島市ホームページ http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/genre/0000000000000/1111135185460/