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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol21 軍都広島の医療の状況

明治 10(1877)年に広島医学校と広島県病院(以下,資料や時期により異なることもあるが,戦前については混乱をさけるためこの名称に統一)が設立され,両者は広島県の医学・医療の発展を導いてきた。しかし,明治 21(1888)年 3 月 31 日に医学校が閉校し,以降,広島の医療は,広島陸軍病院,呉海軍病院などと,広島県にゆかりのある医療関係者を会員として明治 29(1896)年 4 月 17 日に発会した芸備医学会によって支えられた。特に軍病院は,大きな影響を与えた。
日清戦争において宇品港から兵員や物資が戦場に輸送され,広島市は当時の日本最大の兵站基地としての役割を担うことになり,その一環として明治 27(1894)年 7 月 8 日に広島衛戍病院にかわり戦時体制の広島陸軍予備病院(本院),その後 4 分院が開院した。この病院は4,051 人の収容力を有する日本一の規模であり,先進的な公開手術が行われた。また病院には,日本赤十字社救護員として軍事病院に最初の看護婦が派遣され,看護婦への評価を高めた。さらに明治 28(1895)年 6 月 1 日には,当時の世界的規模の似島臨時陸軍検疫所を開所した1)。
広島陸軍予備病院の入院患者を分析すると,入院患者 5 万 4,020 人のうち治癒 9,741 人(18%),海軍では麦飯などの採用により消滅した脚気が 1 万 6,885 人(31%),予防体制の整備によって減少が可能な伝染病が 1 万 2,361 人(23%)を占め,外傷は 4,261 人(8%)に過ぎなかった。また市民にもコレラが流行し,明治 28 年中に県内で 3,910 人の患者と 2,957人の死者が発生した(全国 2 位,うち広島市は 1,567 人と 1,302 人)。なおコレラ禍は,陸軍の防疫体制の不備によってもたらされたが,その終息をもたらしたのも陸軍の徹底した消毒や似島臨時陸軍検疫所避病院船入村分院(のちの広島市船入病院)の開院などであった。
北清事変に際し陸軍は,明治 33(1900)年 6 月 27 日広島衛戌病院本院(定員 230 人),同3 区(定員 464 人)を使用して広島陸軍予備病院を開院し,7 月 18 日より戦地から送られてくる患者を収容した。その後,フランス軍患者の受け入れと戦地からの還送患者の増加のため,さらに臨時病舎,仮病舎を建設し対応した。この病院では 7,919 人が収容され 5,029 人(64%)が治癒するなど日清戦争期に比較すると大きな改善が見られるが,それは伝染病患者 1,568(20%)中にコレラ患者がいなかったこと,脚気が 1,693 人(21%)に減少したことなどによる。なお外傷患者が 1,096 人(14%)入院したが,レントゲンなどの最新医療機器による診断が行われた2)。
日露戦争にともない明治 37(1904)年 3 月 6 日以来広島市内には広島予備病院(日露戦争時には広島陸軍予備病院とは呼ばなかった。)本院と七つの分院が開設され,1万人余を収容できる規模となった。また山口・浜田・忠海の各衛戌病院を閉鎖して分院とするなど拡張が続いた。そして 11 月 1 日,日清戦争期に建設した施設を利用した第一消毒所に加え,新たに建設した第二消毒所からなる似島臨時陸軍検疫所が開設された。
広島予備病院に収容された患者 22 万 4,213 人のうち 2 万 2,498 人(10%)が治癒した。また病類別では脚気が 6 万 9,921 人(31%)と多いが,伝染病は 7,469 人(3%)と減少し,それにかわって激戦と銃器の発達を反映して外傷者が 7 万 3,953 人(33%)と脚気をしのぐようになっている。このうち伝染病の減少は,伝染病患者が収容された江波分院において病理分析とともに徹底した消毒を実行したこと,似島検疫所が早期に開所し伝染病患者の入市を最小限に食い止めたことなどによる。ただし脚気は,陸軍軍医の上層部は脚気が白米食に起因することを認めず麦飯の採用を拒み,その意向をくんだ医師が脚気菌の発見に情熱を注ぐなどしたため,ほとんど治療の効果が見られなかった3)。
明治期,陸軍病院と広島県病院以外に大規模な病院のなかった広島市においても第1次大戦以降になると,産業や中国地方の中枢都市としての発展にともない職域病院が見られるようになる。こうした中で大正 9(1920)年に広島鉄道診療所(昭和 15 年に広島鉄道病院),大正 11(1922)年に広島逓信診療所(昭和 17 年に広島逓信病院)が開設された4)。
戦時体制期,広島陸軍病院は基町に第一分院と第二分院,その他に江波・三滝・大野分院を開設した。また昭和 20(1945)年 6 月には,本土決戦に備え広島臨時第一陸軍病院,広島臨時第二陸軍病院,大野陸軍病院の三病院体制とし,それぞれに分院を設置した。当然のことながら,陸軍似島検疫所も開所した。この間,昭和 14(1939)年には軍病院と関係の深い日本赤十字社広島支部病院(のちの広島赤十字病院),昭和 17(1942)年に広島陸軍共済病院,性格が異なるが,昭和 19(1944)年に三菱重工業広島機械製作所(観音町)と広島造船所(江波町)に構内病院と診療所が開設された。さらに昭和 20 年 2 月 13 日,広島県病院を附属医院として広島県立医学専門学校が設立された。なおこれらの多くの医療機関において,看護婦の養成が行われた。
このように戦時期の広島市には多くの医療機関が存在したが,このうち爆心地に近い第一,第二陸軍病院と広島県病院は原爆投下により壊滅した。また広島赤十字病院や広島逓信病院は,コンクリート部分を残し焼失,その他の病院も少なからぬ被害を受けた。一方,これらの病院や診療所には多くの医療従事者が働いていたが,軍関係を除く 2,370 人のうち 2,168人(91%)が原爆の被害を受けた。なお医師 298 人のうち 270 人,歯科医師 152 人のうち 132人,薬剤師 140 人のうち 112 人,看護婦 1,780 人のうち 1,654 人が被爆したと記録されている5)。
このように罹災者や殉職者が多く出たのは,昭和 12(1937)年に制定された「防空法」と関連法令に基づいて,医療従事者が防空業務に従事することを義務づけられたことによる。広島市の場合には,広島県知事の発行した「防空業務従事令書」により疎開することを禁止され,市内において防空救護業務にあたることを強いられた。空襲が激しくなるにともない広島県医師会は,「市内にいては医師の役割は果たせない」と疎開を求めたが認められなかった6)。この結果,多数の医療従事者が広島にとどまり被爆したが,それは単に医師とその遺族の不幸にとどまらず,被爆者医療にも大きな支障をもたらしたのであった。


1) 日清戦争期に関しては,千田武志「日清戦争期における広島の医療と看護」(『広島医学』第 62 巻第 6 号,2009 年 6 月,315~330 頁)を参照
2) 北清事変期については,岡本裕子,坂村八恵,隅田寛,千田「北清事変期の広島陸軍予備病院における医療と看護」(『広島国際大学看護学ジャーナル』第 7 巻第 1 号,2009 年,15~25 頁)を参照
3) 日露戦争期については,千田「軍都広島と戦時救護」(黒沢文貴・河合利修編『日本赤十字社と人道援助』東京大学出版会,2009 年,141~171 頁)を参照
4) 広島市役所編『新修広島市史(第二巻 政治史編)』(広島市,1958 年)593 頁
5) 「八月六日広島市空襲被害並ニ対策措置ニ関スル件(詳報)」1945 年 8 月 21 日(広島県『広島県史』原爆資料編,1972 年,148 頁)
6) 広島原爆医療史編集委員会『広島原爆医療史』(広島原爆障害対策協議会,1961 年)205 頁

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