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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol24 広島大学医学部の動向と医師と看護婦の養成

すでに述べたように,明治 21(1888)年 3 月 31 日に広島医学校が廃校となって以来,広島の医療関係者と市民は,ことあるごとに医学教育機関の設立を要望し続けた。こうした願いは,日中戦争,太平洋戦争にともなって深刻化する医師不足の解消策として実現の可能性が高まり,広島県は昭和 20(1945)年 1 月 12 日に「県立医学専門学校設置認可ニ関スル件申請」を国に提出,2 月 13 日に認可を受け 4 月の開校を目指した 22)。
昭和 20年 7 月,医学校入学者に限って中学校卒業者の動員が解除されることになったため,広島県立医学専門学校(広島医専)は 8 月 8 日に開校式を行うことを予定した。しかし,空襲が日増しに激しくなっていることに危機を感じた林道倫校長は,8 月 5 日に式を繰り上げ実施し,その日のうちに高田郡小田村(現・安芸高田市甲田町)の寺院・高林坊に疎開し授業を開始した。こうしてほとんどの教職員と学生は,原子爆弾による被害を免れたが,校舎(広島市皆実町の元広島県師範学校跡)と附属医院(広島市水主町。旧広島県病院)は灰燼に帰した。このため広島医専は,12 月 6 日,賀茂郡安浦町(現・呉市)の旧安浦海兵団跡へ移転,授業を再開した。
戦後はあらゆる分野において GHQ(連合国軍最高司令官総指令部)の改革の洗礼を受けた。医学教育も例外ではなく,医学専門学校などを廃止して大学のみとすることが決定され,既存の医学専門学校は,医科大学に昇格可能な A 級校と廃校とする B 級校に選別されることになった。医大昇格を目指した広島医専は,昭和 22(1947)年 1 月 15 日に,学校を安浦町,附属医院を呉市に設置する内容の「広島県立医科大学設立認可申請書」を提出したが,医学校は都会地に統一的に定着させるという原則にそぐわないという理由で B 級校の内定を受けた。
またしても廃校の危機に直面した広島医専は,予科を除く施設を呉市に設置することを希望し,呉市は戦後の海軍なきあとの未来像を平和的文化都市とし,これを目指して広島医専の申し入れを受け入れることにした。そして呉市は,校舎として二河公園内の旧呉海軍工廠工員宿舎,附属医院本院として呉駅西の呉市市民病院を寄附,附属医院分院として阿賀町原の市立呉病院を委譲した。広島医専は,昭和 22 年 2 月 15 日に学校を旧呉海軍工廠工員宿舎に,4 月 1 日に安浦町の附属医院仮診療所を旧市立呉病院(阿賀分院)に移転し,本院とする予定の旧呉市市民病院の改修を急いだが,完成直前の 4 月 5 日に火災に見舞われた。こうした中で 6 月 18 日に広島県立医科大学(広島医大)の設立が認可されたのであるが,学部開設については再審査をするという厳しい条件がつけられた。
再審査に向けて阿賀分院の工事が進められ、基礎医学教室、伝染病室、事務室が完成、広島医専は昭和 22 年 11 月 25 日に教育施設としては不適切な旧工員宿舎の二河町から阿賀町原に移転した。ところが昭和 22 年 12 月 19 日,基礎医学教室と伝染病舎の一部を漏電により焼失,またしても廃校の危機に直面した。このときも呉市などの協力により,新たに英連邦占領軍が占有していた旧呉海軍共済病院阿賀分院と,活動中の広共済病院の委譲を受けて前者を学校,後者を附属医院(本院)とすることとし(他に 3 分院)昭和 23(1948)年 3 月 10日,広島医大設立が正式に認可された。そして 4 月 1 日,幾度となく廃校の危機を乗り越えて広島県立医科大学は開校した。さらに昭和 27(1952)年 4 月 1 日の新制広島医科大学を経て昭和 28(1953)年 8 月 1 日をもって広島大学医学部に移管した。
一方,看護教育については,昭和 22 年 4 月 8 日に,呉市民病院看護婦養成所生徒 10 人を引き継いで,広島県立医学専門学校附属医院看護婦養成所(修業年限 2 年)が開所した。そして 5 月 30 日に同看護婦助産婦養成所と改称し,広島医大の開学と同じ日に附属医院看護婦助産婦養成所となった。また昭和 24(1949)年 4 月 1 日の「保健婦助産婦看護法」公布にともない,広島県立医科大学厚生女学院(修業年限 3 年)と変更した。その後,新制大学への変更を経て広島大学医学部附属看護学校と改称した。
広島大学医学部への移管にともない,新たに医学部の呉市から広島市への移転という問題が発生した。文部省や医学部が広島市への移転を望んだのに対し,呉市には海軍にかわる中核的存在として広島医専を迎え入れ,苦しい中で何度となく廃校の危機を乗り越え広島医大,広大医学部へという発展を支えてきたという強い想いがあった。
結局,この問題は,国立療養所広島病院を呉市に移転し,広町にある附属病院を分院として残すことで決着。昭和 31(1956)年 9 月 30 日に国立療養所広島病院は閉鎖され,同年 6月に英連邦軍朝鮮派遣軍から返還された旧呉海軍病院の施設に国立療養所広島病院の職員・入院患者を移転し,新たに国立呉病院を開院した。翌昭和 32(1957)年 9 月 30 日,広島大学医学部と附属病院は広島市霞町に移転,広島県の医療の中心は呉市から広島市に交替したのであった。またこれを契機として,広大医学部はこれまで以上に被爆者医療に取り組むことになる。
これ以降,戦時期から戦後にかけての看護教育と看護婦の被爆者救護について取り上げる。戦時体制の進展にともない看護婦の需要が急激に増加し,昭和 16(1941)年 10 月 3 日に「看護婦規則」が改正され,看護婦の年齢資格が 18 歳から 17 歳に,昭和 19(1944)年 3 月 14日には 16 歳に引き下げられた。また 10 月 2 日には,これまで看護の学術を 1 年以上修業した者に与えていた看護婦試験受験資格を,女子中等学校卒業者等は 3 か月以上,その他は 6か月以上に短縮した。同時に 2 年以上となっていた看護婦学校等の修業年限は,女子中等学校卒業者などは 6 か月以上,その他は 1 年以上に緩和された 23)。こうして戦時体制期,特に昭和 19 年以降,大量の看護婦が養成された。
看護教育について,水主町にあった広島県病院附属看護婦養成所(昭和 20 年 4 月 1 日に広 島県立医学専門学校附属医院看護婦養成所と改称)に例をとる。この養成所の定員は 20 人で1,2 年生は講習生と呼ばれ,修了すると看護婦免状が与えられた。しかしながら看護婦になっても 3 年生,4 年生として勤務することを義務づけられ,医師と同様に「防空業務従事令書」によって職場離脱を厳しく制限された。なおこの他,ここでは日本医療団による看護婦養成,6 か月で看護婦を速成する特志看護婦志願者の教育も行われた。
8 月 6 日に病院にいた看護婦や講習生と,建物疎開の義勇隊の救護に出動した者のほとんどは,死亡ないし行方不明となった。一方,大野町のチチヤス牧場で行われた健民修練に出席した 3,4 年生 8 人は健在で,古田救護所における主力として活動した。結局,看護婦,講習生は,76 人のうち 46 人が死亡ないし行方不明となったが,この他にも院内では,眼科の試験を受けていた特志看護婦志願者 40 人全員と高橋謙講師が死亡した。
健民修練に参加していた看護婦は,暁部隊(陸軍船舶司令部の通称)のトラックで広島市へ戻り,古田救護所などで救護にあたった。救護所には次々に被爆者が押し寄せ,「たくさん疎開していたはずの医薬品も底をつくように」なり,「マーキュロ(赤チン)の瓶をかかえて傷口に塗る。終わりには瓶の中に筆をつっこんでそれで塗っていた」という 24)。
最後に,8 月 6 日の広島赤十字病院看護養成所の看護婦生徒の救出と同病院における救護にあたった看護婦の手記を採録する 25)。 

 

〔前略〕次々来る負傷者で人垣の山が出来る。とそこへ,谷口婦長がびしょ濡れのモンペに頭髪を振り乱し,「助けて下さい。生徒が下敷になっています。」と走って来る。
渡辺看護婦と直に身支度にとりかゝる。彼女は前額部の創に風呂敷利用の三角巾で鉢巻をし,手洗いの水道で顔を洗う。(この時水はまだ出ていた。)私も血液丈でも洗い流そうとしたが,余りの痛さで中止する。(後日受持患者曰く。真黒な顔に,つり上った眼と歯が白い丈で恐しかった,と)モンペ着服,皮靴で足元を固め,寄宿舎へと動ける者は皆走った。〔中略〕
大きな柱を梃子に兵隊が下から次々生徒を引っ張り出している。傷病兵とは思えず頼もしい限り。
今春入学したばかりの生徒に,助け出された同僚を看ている様に云い又次へ。どの位経ったのか,元のところへ引き返してみると,魂の去ったことも知らず,亡き友を抱いて,放心状態でいる新入生である。その傍に静かに横たえ,合掌し作業に移る。(後日きくところによると生徒は,死体に至る迄殆ど堀り出されたとか。あの状況下で 大変であったことと思う)その中,赤十字旗を頼りに一般人もぞろぞろ入って来て,防空壕も何処も彼も満員となり,手当と水を求める。
古賀婦長からオリーブ油を中三へととりに行く様にいわれる。エレベーター前は通れない。やっとの思いで貴重品として扱っていた油を入手。大きく裂いた脱脂綿にどっぷり油をつけ,両手で砂や硝子片の入っているのも構わず,顔,背,手,足と手当り次第塗っては,次へ次へと塗りつける。清潔不潔もなく,薬局から追加された落花生油も焼け石に水である。勿論,ガーゼ,包帯は全くなし。〔以下省略〕

 

被爆当時の看護婦生徒は 408 人で,そのうち 404 人が救出された。なお昭和 34(1959)年,谷口(のち絹谷)オシエ婦長は第 17 回フローレンス・ナイチンゲール記章を受章した。


22) 広島大学医学部の変遷に関しては,広島大学医学部五〇年史編纂委員会編『広島大学医学部五〇年史』通史編(広島大学医学部同窓会(広仁会),2000 年)を参照
23) 厚生省医務局『医制百年史』記述編(ぎょうせい,1976 年)307~308 頁
24) 河合藤子『水主町官有 103 番地が消えた日』(家族社,1996 年)123 頁。なお広島県病院附属看護婦養成所については,本書を使用した。
25) 久保文子「被爆の陸軍病院赤十字病院に勤務して」(日本赤十字社看護婦同方会広島県支部『日本赤十字社広島県支部戦時救護班史「鎮魂の譜」』1981 年,140~141 頁)

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