Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol2教育現場の復興と,学校が地域の復興に果たした役割-ある爆心地の学校を中心に-
卜部 匡司(うらべ まさし)
昭和 51(1976)年生まれ。広島大学大学院教育学研究科博士課程後期修了/博士(教育学)。
広島大学大学院教育学研究科教育学講座助教,徳山大学経済学部准教授を経て,現在,広島市立大学国際学部准教授。専門は,比較国際教育学。
はじめに
原爆ドームの傍に架かる T 字型の相生橋。その相生橋を渡った対岸にあるのが広島市立本川小学校である。毎年 4 月の新学期には,桜の花が満開の中で,真新しい制服を着て,背中に大きなランドセルを背負った新1年生が入学してくる。それを 6 年生のお兄さんやお姉さんが温かく迎え,1年生とペアを組んで1年間にわたってお世話をする。学校では,勉強だけでなく,学級活動や運動会,校外学習などを通して集団生活のルールを身につけ,友だちと仲よく助け合って生活することが求められる。例えば,2 年生は自分たちだけで少人数のグループに分かれ,校区内の保育園や店舗,交番などを訪問し,インタビュー調査を行う。また 5 年生になると,校外学習でソース工場に出かけ,お好み焼きの作り方をはじめ 1),公共交通機関の利用法や施設見学のマナーについて学習する。さらに,秋には PTA の協力のもとで 2),保護者や地域の人たちを集めて全校児童による歌や劇などの発表会が行われる。こうして子どもたちは,地域に見守られながら,学校生活を通して「知・徳・体」をバランスよく成長させていくのである。
この本川小学校が創設されたのは明治 6(1873)年であり,広島では最も古い学校のひとつである。昭和 3(1928)年には,モダンなアーチを持つ美しい鉄筋コンクリート三階建ての校舎が建てられ,また校歌も制定されるなど,当時から本川小学校は広島市の先進的な学校であり,子どもたち自慢の学校であった3)。いまや約 140 年にわたる長い歴史の中でも決して忘れてはならないのは,昭和 20(1945)年の原爆投下とその後の復興に向けた数々の努力である。とりわけ注目すべきは,地域の戦後復興が学校を中心に展開されてきたことである。そこで本稿では,爆心地に最も近い本川小学校の事例を中心に,広島に原爆が投下された後の教育現場の復興過程について明らかにする。
1)お好み焼きとは,鉄板で焼いて食べる広島の名物料理である。水に溶いた小麦粉を生地として伸ばした上に魚粉を振り,その上にキャベツ,もやし,ネギ,天かす,豚バラ三枚肉の層を作る。ヘラでひっくり返し蒸し焼きにする。十分に火が通ったら,そばやうどんを下にもぐらせ,薄く伸ばした目玉焼きの上に乗せる。もう一度ヘラでひっくり返し,お好みソースをたっぷり塗り,青のりを振ったらでき上がりである(広島市教育委員会編『ひろしま平和ノート(中学校)』広島市教育委員会,2011 年)2 頁)。
2)PTA(Parent-Teacher Association)とは、教職員と保護者で構成される各学校の任意団体である。
3)平末郁馬「創立百二十周年記念誌の発刊に当たって」(『創立 120 周年ほんかわ』広島市立本川小学校,1993 年)3頁