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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol24 新学制の発足と経験的学習の推進

昭和 22(1947)年 4 月の新学期の開始とともに,新学制(6・3 制:9 年制義務教育)による小学校および新制中学校が発足した48)。同時に,本川国民学校は本川小学校へと改称した。この新学制の発足を前にして,すでに前年度から教育復興のための準備が行われていた。例えば,昭和21(1946)年 5 月 15 日には文部省「新教育指針」が発行され49),とりわけ「日本国民の弱点として,合理的精神にとぼしく科学的水準が低い」からこそ「軍国主義者及び極端な国家主義者が,こうした弱点を利用しやすい」50)のであり,「真実を愛する心,すなわち真実を求め真実を語り真実を行う態度が,指導者に誤り導かれぬために必要である」51)ことが示された。その後,11月 3 日には新憲法「日本国憲法」が,昭和 22 年 3 月 31 日には「教育基本法」および「学校教育法」が制定された。それと並行して,同年 3 月 20 日には「学習指導要領(試案)」が提示された。
こうした全国の動きに合わせて広島でも昭和22年 4月 7日には新学期の入学式および始業式が挙行されたが,その後は新学制への移行準備が間に合わず,広島市の学校は 4 月 15 日から授業を実施することになった。こうして始まった戦後の新教育は,子どもの興味や関心を重視したアメリカの児童中心主義の影響を受けている52)。その典型例として,広島市での新教育推進の先駆けとなった「己斐プラン」がある。昭和 21 年秋から始まり昭和 24(1949)年まで 3 回にわたる研究発表会が開催された「己斐プラン」は,「(科学性,自主性,社会性を備えた)近代的日本人」の育成を目標とし,その人間像として「(考える,強い,明るい)心身ともに健やかな子供」像が示された53)。その教育課程は「経験群」として,1)「社会生活」に必要なもの(対自然・社会・人間の主要領域に直面して問題を解決していくコース,現実問題の充実向上を期待するコース),2)生活を豊かにするために必要なもの(美術・音楽・文芸などの「情操」面),3)身体に直接的に必要なもの(体育・衛生等の「健康」面),4)各種学習のための基礎的「技能」として必要なもの(言語・数量計・手技(家庭科的))の 4 領域で構成された54)。これをもとに具体的なカリキュラムが「生活プログラム」として設定され,「しごと」(経験的学習),「おさらえ」(基礎基本の反復練習)および「みがき」(系統的学習)の 3 領域が示された。「しごと」は,「生命と社会の創造維持発展-平和への希求のために意義ある生活をとりあげ実践的な生活者たらしめ」るための経験的学習であった。また経験的学習で自然に身につかない知識や技能については,「みがく」という名の系統的学習によって補われた。また特に低学年で求められる反復練習を「おさらえ」とし「みがき」の一部に組み込んだのである55)。
こうした子どもの経験に基づく新教育は,昭和 22 年以降の本川小学校においても窺い知ることができる。特に同校の場合,学校行事を軸とした学習が展開されている。例えば,5 月 22 日の全校サーカス見学を皮切りに,6 月 2 日からは教師による「家庭訪問」が 1 週間にわたって行われた56)。「家庭訪問」とは,教師が子どもの家庭を訪問し,子どもの学校での様子や成績などについて保護者に報告しながら学校と家庭の連携を図る行事である。さらに 6 月 9 日には,進駐軍による「交通安全指導」,16 日には「授業参観」が行われるとともに「母親学級」が開設された57)。「母親学級」とは,主に母親を対象とした育児などに関する勉強会であるが,こうした家庭向けの集会も学校で行われたのである。そして,8 月 5 日には原爆の日の前夜祭として校内で「芸能会・展覧会」,6 日には「本川学区慰霊祭」,7 日には「学校同窓会」が開催された。また 10 月 15日には戦後初の「秋季大運動会」が実施された58)。その 12 月には天皇陛下が広島を訪問され,年が明けた昭和 23(1948)年の元旦には「新年拝賀式・学校復興表彰式」が行われ,1 月 10 日には「創立記念式ならびに記念作品展覧会」が,さらに 13 日には「児童役員任命式」が執り行われた59)。その後も「遠足」,「避難訓練」,「学芸会」,「学区合同運動会」,「臨海学習」,「図画・習字校内コンクール」,本川での「水泳指導」など,数々の学校行事が相次いで行われた。こうして当時の学校は,地域を巻き込んでの行事を重ねながらの復興であった。また,こうした子どもの経験の場は,次第に学校や地域の中だけでなく,学校外においても展開されていった。例えば,2 月 4 日に開催された「文化国家建設学生大会」には本川小学校 5 年生以上の全員が参加し,3 月 20 日は6 年生が「修学旅行」で厳島を訪れた。さらに 6 月 28 日には「本川小学校少年赤十字団」が結成され,また「平和祭花行進」や「横川橋開通式」などに出席するなど,子どもによる社会活動への参加も始まった60)。
他方,保護者や地域からの支援体制も整いつつあった。昭和 23 年 3 月 24 日に保護者会によって「本川小学校 PTA」の結成準備会議が開催され,それが次第に新校舎建設陳情のための署名運動の中心的役割を果たすことになった61)。さらに,海外から数多く支援が寄せられた。ミネソタ州(アメリカ)オスチン町の小学校から子どもの読み物と手紙が送られ,またアメリカ赤十字少年団からの寄贈品もあった62)。5 月 2 日には,ハワード・ベル博士が再訪し,学校や地域が絶大な歓迎会を開いた63)。


48)小学校および中学校だけでなく幼稚園も発足した。(前掲「年表編」161 頁)
49)文部省「新教育指針」は,その第 1 分冊が 1946 年 5 月 15 日,第 2 分冊が 6 月 30 日,第 3 分冊が 11 月 15 日,第 4 分冊が 1947 年 2 月 15 日に発行されている。
50)文部省「新教育指針:第一部前編」1946 年(『戦後教育改革構想Ⅰ期2:新教育指針(付・英文)』日本図書センター,2000 年)29 頁
51)同前 29 頁
52)水原克敏「現代日本の教育課程の歩み」(田中耕治,水原克敏,三石初雄,西岡加名恵『新しい時代の教育課程
〔改訂版〕』有斐閣,2009 年)46 頁
53)前掲『戦中戦後における広島市の国民学校教育』222 頁
54)同前 222 頁
55)同前 222~223 頁
56)前掲「沿革要項」
57)本川小学校「校史編」(『創立百周年記念誌』広島市立本川小学校創立百周年行事実行委員会,1973 年)60 頁
58)同前 60 頁
59)前掲「沿革要項」
60)前掲「校史編」61 頁
61)同前 62 頁
62)同前 60~61 頁
63)前掲「ハワード・ベルと広島の児童文化-占領軍と児童文化復興に広島の未来を託した人々」11~12 頁

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