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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol31 直後の救援-「比治山迷子収容所」

表紙に「昭和二十年度日誌広島市比治山国民学校」と墨書された日誌が現存する2。「八月八日」の項には、「午後四時 市収入役黒瀬氏孤児連行 迷子収容所開設サル」とあり、校長だった石田正己や訓導(教諭)の斗桝良江ら5人が勤務していたことも記されている。

原爆投下で未曾有の混乱に陥ったさなか、保護者の生死が不明となった子どもたちの救援が始まる。『広島県戦災誌』は、「比治山国民学校に孤児収容保育所を開設」は8月10日とするが3、実際は被爆の2日後であった。

比治山国民学校は、爆心地から南東に約2.8キロにあり、火災を免れた。教室にいた児童約50人はガラス片などで負傷したが無事であり、 3年生以上の児童は佐伯郡津田村(現廿日市市)などへ集団疎開していた4。被爆直後から負傷した市民が避難し、県が翌7日に布告した救護所13カ所の一つとなり5、石田も女性教諭らも泊まり込んで看護を手伝っていた。

「罹災患者依然多数呻吟ス 孤児収容所モ漸時収容サレテ二十四名トナル」(「日誌」8月9日の記述)。当時28歳の母でもあった斗桝が後に著した手記によると、「母を求めて泣き叫ぶ赤子」に「乳を含ませてやると」「やがてスヤスヤと眠り始めた」が、数日後に「死んでしまった」6。極限下の保育が続いた。

運営は広島市社会課が主管した。当時の課長で後に初代東京出張所長となり 、昭和24年の広島平和記念都市建設法制定に尽力した矢吹憲道が残した一連の資料のなかに「比治山迷児収容所概要」という文書がある7。昭和天皇が派遣し、昭和20年 9月3日に比治山迷子収容所も訪れた侍従永積寅彦の広島視察を控えて作成したとみられる。市の「言上書」8は「概要」の内容を記していた。

前日の9月2日までに受け入れたのは計91人(うち女児36人)。内訳は0~5歳が40人、 6~12歳が47人、13歳以上が4人。うち18人が親に、14人が親族などと計32人が引き取られたが、9人が死去していた。「強度ノ下痢症状ヲ起シ衰弱死亡ニ至レルモノナリ」。放射線急性障害による原爆死である。

広島市は、親や親族を捜すため収容児の名簿をつくり、臨時県庁が置かれた広島東警察署をはじめ市庁舎、福屋百貨店、広島駅前などで16日に掲示し、市郊外祇園町(現安佐南区)の原放送所で業務を再開した広島中央放送局(現NHK広島放送局)のラジオ放送を通じて呼び掛けも2回していた。

「相扶け孤児は育つ」。広島市郊外の温品村(現東区)に疎開させていた輪転機を動かし、自力発行を再開したばかりの中国新聞は、この見出しに写真を付けた9月13日付で、迷子収容所の状況を報じた。「原子爆弾症のため」頭髪が抜けた子も「ボツボツ小さな毛も生え」、野草採取や食用カエルの捕獲もしていると快活さを描写する一方、新たな入所児は「日に三名を下らない」と伝える。年長は15歳からの35人(うち女児12人)の名前も載せたが、「かつちゃん(五歳)」「不詳二人(五歳と六歳いづれも当日己斐町にあり)」などと記す。年端の行かない子は自らの名も言えないほどの状態だったことがうかがえる。

比治山迷子収容所には、高松宮が訪れた11月11日時点でも30人がいた9。引き取り手が現れなかった16人は昭和21(1946)年 2月10日、後述する広島戦災児育成所へ移る10。開設中に155人から200人を収容したされる11が、どれだけの乳幼児が肉親と再会できたのか、また亡くなったのか。当該の「日誌」からもはっきりしない。斗桝の手記によると、自ら乳を与えた子をはじめ11人の子どもを弔ったという12。


2 「昭和二十年度目誌広島市比治山国民学校」(広島市立比治山小学校所蔵)

3  広島県編 『広島県戦災史』(第一法規出版社 1988年)年表120頁

4 広島市役所編 『広島原爆戦災誌』第 4巻(広島市, 1971年) 217頁

5 「広島県知事高野源進諭告」昭和20午 8月 7日(広島県立文書館所蔵)

6 斗桝良江「比治山国民学校迷子収容所 五日市戦災児育成所」(『広島原爆戦災誌』第 5 巻資料編,広島市, 1971年) 647~648頁

7 「比治山迷児収容所概要」昭和20年 9月 2日(広島市公文書館所蔵)

8  広島市 「言上書」昭和20年 9月 3日(『昭和二十年侍従御差遣録』宮内庁書陵部宮内公文書館所蔵)

9  中国新聞1945年12月13日付

10 中国新聞1946年 2月12日付

11  広島市編 『広島新史(行政編)』(広島市, 1983年) 132頁

12  前掲「比治山国民学校迷子収容所 五日市戦災児育成所」 659頁

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