Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol32 「疎開地に取り残され」
広島市の児童総数は、原爆の直前は4万1638人を数えた13。
大戦中、政府は国民学校初等科3年以上6年までの「集団疎開」を決め、昭和19 (1944)年7月、東京都区部や大阪など13都市を指定。広島市は翌20年4月に追加され14、同3日には大手町国民学校(被爆後に廃校)などが第1陣として県北へ向かう。8365人が県内 7郡の寺院や集会所などで寝泊まりして地元の各校に通い、親族宅が田舎にある約 1万7400人が縁故疎開したとされる。親元などにとどまった学童は約3300人が死亡したともみられている15。
終戦により広島市は8月30日、学童集団疎開先からの引き揚げをめぐる「集団疎開児童ニ関スル件」を各国民学校長に通知16。比婆郡敷信村(現庄原市)にいた広島師範学校男子部付属国民学校(現広島大付属東雲小)が9月4日に現地を出発し、集団疎開していた計36校の引き揚げは11月に完了したとされる。
しかし、帰りたくても帰れない、家族も行き場も失った子どもたちがいた。
中島国民学校(現中区の中島小)4年生だった男子が、「疎開地に取残されて」と題して原爆から 1年後に書き、広島戦災児育成所が編んだ手記集がある17。 本人が保存している。いち早く編まれた広島の原爆体験記であり、疎開児童も強いられた被害を赤裸々に伝える。旧字表記を改めて引く。
「いよいよ集団疎開も解散になった。友達はどんどんお父さんやお母さん、 叔父さん、叔母さんなどが迎えに来られ、次々と引き上げて行った。しかし、僕たちのお父さん、お母さんは何日まっても来られなかった/十月になって突然、安村(現安佐南区)の親類から手紙が来て、ちょうどあの日、お父さんとお母さんと一番下の妹とが広島へ出て、あの恐ろしい爆弾のために死なれたということを知った。悲しかった。兄さんも僕もどうしたらよいかわからなかった/弟のことなど次から次へと思い出されて寝られなかった/間もなく双三郡に残った者は全部、三良坂の大社教分院に移った/一カ月くらいして十二月二十八日に、この育成所に来た」。双三郡三良坂町(現三次市)へ一緒に集団疎開した6年生の兄も、幼かった弟も戦災児育成所へ入った。
父が京表具製造を営む一家の住まいは広島市天神町、現平和記念公園の南側にあった。両親と弟や妹は古市町(現安佐南区)に疎開していたが、父(当時45歳)も母(同36歳)も妹(同1歳)も「どこで死んだのか、今も分からない」と 、平成29(2017)年の今年82歳になる男性はいう。
三良坂町に集められた中島・本川・袋町・広瀬国民学校の12人は、昭和20年12月28日、五日市町(現佐伯区皆賀)の元県農事試験場に設けられた戦災児育成所へ着く18。 最初は、比婆郡山内北村(現庄原市)から23日に着いた大手町国民学校などの7人、比治山迷子収容からも15人が26日に移っていた。大手町国民学校は、 区域内に戻る住民がほとんどおらず廃校になっていた。
広島戦災児育成所で集団生活を送ることになる子どもたちは、行政やメディア からも「原爆孤児」と呼ばれる。また、その呼び名で知られていく 。
13 広島市役所編 『新修広島市史』第4巻(広島市, 1958年)640頁 前掲 『広島原爆戦災誌』第4巻 5頁
14 文部省 『学制百年史』 (帝国地方行政学会, 1972年) 567頁
15 前掲 『新修広島市史』第4巻 640頁
16 広島市教育センター編『広島市学校教育史』(広島市教育センター,1990年) 602頁
17 広島戦災児育成所 「あの当時」昭和21年8月(個人所蔵)
18 広島戦災児育成所「日誌」昭和20年12月23日~23年 3月末(広島市公文書館所蔵)