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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol3二 原爆攻撃下における行政の被害と体制

1 市役所の被害

8月5日夜は警戒警報が発令されたため、市役所の防空本部要員や防空小区現地隊は各部暑に出勤し防空活動に従事していたが、翌午前3時ないし早朝に帰宅した。なかにはそのまま勤務に就いた者もいた。〔『市役所原爆誌』 33頁〕夜間防空警備についていた職員は正午まで休養してよいことになっていたので、 8月6日は、男子職員は比較的出勤者が少なく、女子職員はほとんど出勤していた。8時に中庭で朝礼後、それぞれの執務室で仕事にとりかかろうとしたところへ原爆が投下された。〔同上34-36頁〕市役所は爆心地から約1.2kmに位置していた。

「突如、目もくらむ強烈なせん光が走った。・・・・・・時を置かず、ごーっという物事い地響きが役所の建物も崩れよとばかりにとどろきわたってきた。」〔同上36-37頁〕爆風で窓が壊れ人と物が吹き飛ばされ、庁舎内は修羅場と化した。即死者、重傷者、失神後息を吹き返す者、地下や壁際にいて軽傷で済んだ者もいた。生き残った者は脱出をはかり、互いに救助しあった。 間もなく、火災が発生し、 やがて市役所の周囲は火の海となった。多くの者が公会堂の池付近に避難した。市役所付近の建物は疎開で撤去されており、市庁舎が類焼することはありえないと考えられていたが、熱風はついに市庁舎をも襲い、ほぼ全焼した。東南角地下の防衛課 ・防衛部長室 ・ボイラー室とその上にあるl階の保健課、援護課は、かけつけた職員の必死の消防活動により焼失を免れた。午後 3時ごろには周囲の火災も下火となり、歩けるものは避難していった。

職員は、職場、通勤途上、自宅などで被害を受けた。粟屋仙吉市長は、水主町市長公舎で倒壊した家屋の下敷きとなり、その後の火災で焼け焦がれた遺骸が7日に収容された。 1946年版 『市勢要覧』によれば、1945年8月1日現在の職員現在員数は1445人、うち死亡者271人という数字が掲げられている。当時助役であった柴田重暉の10年後の回想によれば、「戦時中の広島市役所には、本庁に約九百人、水道部(基町)に約百七〇人、等を中心として約千二百人の職員を擁していた。この内、本庁関係の即死、行方不明三百七十七名、水道部八十三名、合計四百六十名に達し、残余の職員も誰一人無事故なものはないという惨状であった。」〔柴田重暉23頁〕1966年2月末現在で確認できた数字を示せば、在職中に被爆した職員は計1,068人(市会議員42人を含む)で、うち死亡者445人、生存者424人、 生死不明199人であった。死亡者のうちわけは、死亡時期不明184人、即死45人、 1か月未満106人、 1 年未満12人、 l年以上98人となっている。〔『市役所原爆誌』246-249頁〕

 

2 県庁の被害

爆心地から約900mに位置した県庁は全壊した。出勤していた職員は約700人といわれるが、その多くは、即死するか、倒壊建物の下敷きになって焼死した。爆心地に近い疎開先事務所や出先機関も全滅に近く、そのほか通勤途上または自宅で被爆した者も多かった。 8月10日現在で把握できた庁員罹災状況は、総員1,107人中、健在者254人、負傷者267人、 死亡者57人、行方不明者529人であった。〔「戦災記録」116頁〕高野県知事が 9月7日に出した書簡には、「当県庁員にて既に死亡せるもの六百六名、尚相当数の死者を出すことと存じ居り候、生を全ふせしものゝ多くは出張中の為当地に在らざりし者にて、重軽傷者を加ふれば在庁員の全部と云ふも過言に無之」と記されている。〔「高野源進書簡」〕 1976年に刊行された『広島県庁原爆被災誌』には、「広島県職員の被災状況」 として、死亡者数を本庁 607人、出先機関等524人、計1,131人としている(この数字は1976年 1月31日までに死亡した 「県職員原爆犠牲者」の総数)〔『県庁原爆被災誌』 92-93, 323-386頁〕

 

3 行政機能一壊滅からの建て直し

空襲により県庁が罹災した場合の移転先(市役所・本川国民学校・商工経済会・安芸高等女学校・福屋)は、いずれも消失もしくは倒壊した。警察部長が出張中の県知事に代わり、県防空本部を比治山下の多聞院に設置したのは、被爆からおよそ9時間後のことであった。

石原警察部長は上柳町の官舎で倒壊した建物の下敷きとなり左足を負傷したが、脱出し、付近の応急救助活動にあたったのち、市役所、総監府に向かった。いずれも焼け落ちていたため、かねて災害時の集合場所と決めていた多聞院にたどりつき、午後5時ごろ「広島県防空本部」 の立札を立てた。負傷した警察官と2人での開庁であった。備後方面(芦品郡府中町)に出張していた高野広島県知事は、午後6時半ごろ多聞院に到着した3。8時過ぎには防空本部は警察官を中心に60人程度になった。

翌朝、防空本部(仮県庁)は下柳町の広島東警察署に移転した。東警察署は被爆直前に京橋町から耐火建物である芸備銀行の支店に移転しており、被爆時、必死の消火活動により焼失を免れたものであった。

原爆投下時、市役所市長室では幹部会議が開かれていた。居合わせた幹部は、黒瀬斉収入役、島田修三教育部長、谷山源陸戦時生活部長らで、いずれも負傷した。前夜からの空襲警報発令で警備に就いた幹部および職員の多くは、自宅で被爆した。配給課長・浜井信三は大河の自宅で被爆、ただちに本庁に向かう。御幸橋を渡り広島電鉄本社前で血まみれの黒瀬収入役と会い、本庁の様子を知る。その後、中原考査役 (仁保で被爆)、 ついで森下重格助役が現れた。〔浜井信三3-8頁〕森下助役は千田町 の下宿で倒壊家屋の下敷きになり 一時失神、寝巻き姿のまま南出張所(皆実町)へ避難後、浜井配給課長らと遭遇したもので、 4者で善後策を協議した後、午後 2時ごろ中原考査役らと登庁し、 7日からは市長代理として陣頭指揮をとった4。 6日夕、 多聞院の県防空本部との連絡もとれた5。 7日朝、 柴田重暉助役が秘書と子息に伴われ登庁した。柴田助役は中広の自宅で被爆、倒壊家屋の下敷きになり歩行困難となるも、午後5時ごろ子息に背負われて本川国民学校まで行ったものの猛火のため引き返し、翌朝、登庁したのであった。〔柴田重暉17-18頁〕少人数ではあったが、職員が庁舎に泊まり込んで、市役所の機能を復活させるべく奮闘する6。

中国地方において指揮命令系統の頂点に立つべき中国地方総監府も壊滅状態となった。大塚総監は上流川町の官舎で建物の下敷きになり焼死した。服部副総監は、広島文理科大学内の庁舎で被爆 ・負傷したが、脱出し、双葉山の防空壕に設けられた第 2総軍司令部に到着し、事態の収拾を軍に依頼した。その後、多聞院に向かい、総監府は機能を失ったので事態の収拾を県知事が行うよう指示した。〔『中国地方総監府誌』29-30頁〕

基町に陣取っていた第59軍-中国軍管区司令部は原爆により壊滅状態となり、司令官・藤井洋治は死亡した。生き残った松村秀逸参謀長が、賀茂郡原村に駐屯していた総武兵団(第230師団)への連絡のため山本大尉を派遣した。山本大尉は、16時に到着、命令を口達した。原村部隊の先遣隊は20時に出動、歩兵大隊長の指揮する主力は、22時に出発、貨車輸送により移動した。〔安藤福平〕このとき先遣隊で出発した土橋慶治中尉の手記によれば、「八本松駅まで行軍し、午後八時、暗黒のなかを汽車に乗りこんだ。汽車は速カ鈍く、ようやく広島市郊外の向洋駅(?)に到着した。ここから行軍して広島市内に入ったが、すでに七日の夜明けであった。夜のしらじら明けに見る市内の惨状は、想像を絶していた。」 とある。〔『広島原爆戦災誌』第1巻430頁〕

 

4 軍主導の戦災処理体制

原爆攻撃により軍と行政機聞が壊滅状態となるなかで、爆心から離れた宇品の船舶司令部はほぼ無傷で残った。佐伯文郎船舶司令官は、直後の状況をつぎのように記している。〔佐伯文郎〕

原爆直后、爆発の状況は全く不明であった。市内中心部の上空には入道雲が折り重って天に沖し、実に凄惨な痛ましい状況を呈した。

総軍・中国軍管区司令部・県庁・市役所に連絡した処、通信不通で状況が不明であったが、市内に火災が起ったことは現実に認められた。

そのうちに火傷した患者が構内に、陸続と押しかけて来たので、上屋凱旋館に収容し、船舶軍医部が総がかりで応急手当てをした。

「一刻も忽せにし難い状勢」とみた船舶司令官は 8時50分に最初の命令を出した。〔「船舶司令部作命綴」〕

船防作命第一号

船舶命令 八月六日 〇八五〇 ・宇品

一、本六日〇八一五敵機ノ爆撃ヲ受ケ各所ニ火災発生シ爆風ノ為被害相当アルモノゝ如シ

二、予ハ広島市ノ消火竝ニ救難ニ協力セントス

三、海上防衛隊長ハ消火艇隊ヲ以テ京橋川両岸ノ消火ニ任セシムヘシ

四、広島船舶隊長ハ救難艇ノ一部ヲ以テ逐次患者ヲ似島ニ護送スノレト共ニ爾余ノ主力ヲ以テ京橋川ヲ遡江シ救難ニ任セシムヘシ

五、野戦船舶本廠長ハ救難隊ヲ以テ京橋川ヲ遡江シ救難ニ任スルト共ニ更ニ一部ヲ以テ市内ノ消防ニ任セシムへシ

六、船舶練習部長ハ救難隊ヲ中央桟橋附近ニ於テ出発ヲ準備セシムルノ外一部ヲ以テ通信隊補充隊ヲ救難スヘシ

七、教育船舶兵団長ハ一部ヲ以テ千田町特幹通信隊ノ救援ニ任スルト共ニ主力ヲ以テ破壊消防ヲ準備スヘシ

八、船舶砲兵団長ハ速カニ砲兵教導隊ノ一部ヲ以テ通信隊補充隊ヲ救援スへシ

九、井ノ口部隊及幸ノ浦部隊ハ待機ノ姿勢ニ在ルヘシ

一〇、予ハ宇品船舶司令部ニ在リ

こうして、船舶司令官独自の判断による、消火、救護、患者の護送など救援活動が開始された。

夕刻近く、総軍からの命令により、船舶司令官は在広・到着諸部隊を指揮下に置くとともに、総監府・県・市を指揮下におき、広島警備を担任することとなった。〔佐伯文郎〕服部副総監の要請もあり、行政機関が壊滅状態となるなか、第2総軍は軍主導で戦災処理にあたることを決意、それを船舶司令官に委ねることになったのである。総軍からの命令を受け、 16時40分、 船防作命第18号(前頁写真)が出される。〔「船舶司令部作命綴」〕「予ハ広島地区ノ警備ヲ担任セン トス」 とし、警備担任地域を東地区・中地区・西地区に区分し、それぞれ教育船舶兵団長・船舶練習部長・野戦船舶本廠長に担任させることとしたのである7。翌8月7日10時、総軍司令部において在広陸海軍、官衙長会議が開催され、総軍が臨時指揮し応急措置を講ずることが在広軍官全体の合意となった。〔「戦災記録」100頁〕 これを受けて、 14時、「広島警備担任船舶司令官 佐伯文郎」の名で広警船作命第1号「広島警備命令」が発令された。〔同上102頁〕

予ハ自今広島警備ノ担任ヲ命ゼラレ、在広諸部隊並ニ逐次広島付近ニ到着スル陸軍部隊ヲ併セ指揮シ速ニ戦災復旧ヲ処理セントス、戦災処理ノ為警備ニ関シ中国地方総監広島県知事及広島市長ヲ区処セシメラル

戦災処理のための警備に関しては、行政機関が軍の指揮下に入ることになったのである。在広軍官全体の合意に基づく事実土の軍政状態、軍の指揮下で戦災処理が進められていく。軍官民諸機関の連携を徹底するため、7日10時の在広陸海軍、官衙長会議を皮切りに、各種会議が随時開催された。広島県が関わった会議に限定されるが、広島県「戦災記録」に見える諸会議は次のとおりである。〔同上 99-139頁〕

7日 在広陸海軍、官衙長会議/部長会議(於県本部 )/経済第一部長・農務課長・地方事務所員等協議/罹災対策協議(於船舶司令部)

8日 船舶司令部主催会議(於市役所、中止)/県主催陸海軍関係者の衛生救護会議/防空総本部から6名来広し総監府・総軍と連絡後、知事と懇談(於県庁)/船舶司令官 ・知事懇談 (於県庁)/総軍連絡会議(於比治山神社)/総軍畑元帥・警察部長と懇談(於県庁)/中国軍需管理局長官、警察部長と懇談(於県庁)/戦災後の救護に関し協議会(於防空本部=県庁)

9日 総軍主催会議(於市役所)/船舶司令部連絡会議(於市役所)

10日 岡山県知事・山口県内政部長・内務省防空総本部総務局長来県/県知事、船舶司令官・ 鉄道局長・逓信局長・西部逓信総局長・西警察署長等訪問/宇品警察署管内の一部における警備隊・警察部・警防団・連合町内会長会議/船舶司令部連絡会議(於市役所)

11日 災害対策委員会(於県庁)/防衛会議(於船舶司令部)

12日 県知事、船舶司令官を訪問/災害復旧対策部課長会議(於本部=県庁)/総軍連絡会議

13日 県知事、救護状況を視察後関係課長に指示/戦災対策委員会(於県庁、「戦闘司令所防衛会報」をとりやめて)

14日 県知事、救護状況を視察後衛生課長に指示

15日 部長会議(於県庁)/地区司令部主催連絡会議 ・分課会議(於市役所)/県知事訓示、全庁員参集(於県庁)

17日 県知事、呉鎮守府・呉市役所・呉警察署訪問/第2総軍岡崎参謀長、県知事を訪問/会計課長等、県庁舎移転問題協議(於東洋工業)

18日 県知事、軍管区司令部訪問/部課長会議/市長 ・地方事務所長会議/都市計画委員会/内務省福田事務官来県、協議/東洋工業社長、県知事を訪問

19日 部課長会議/日赤病院長、県知事を訪問

20日 県知事、県庁舎移転(東洋工業)に際し全庁員に訓示/各官公衙長連絡会議(於総監府)

21日 県知事、第2総軍訪問/服部副総監、県知事を訪問/広島市会議長、県知事を訪問

戦災処理は、行政の役割であり、軍がこれに協力する場合にも、軍管区司令部・地区司令部が前面に出るところであるが、市内中心部に所在した官衙、陸軍諸部隊が壊滅状態となったため、船舶部隊が主導するほかなかった。しかし、これは「臨機ノ措置」としてとられたもので、早急に常態への復帰が目指された。

8月8日の連絡会議では、軍側は「先ヅ速ニ現況ヲ把握シ民心安定ヲ図リ」「主要事項ヨリ逐次着手、市民生活ノ復興ヲ図ル」とし、こうした応急措置の期間は「概ネ二十日乃至一ヶ月トシ、順次総監府・県等ノ通常事務〔遂〕行ニ移行スル様」 との意向を述べた。一方、県知事は、市役所は数十人しか出動できていないことから、呉市、県の地方事務所や土木出張所、各種団体の応援を得て、県市一体で活動する予定であることを表明した。〔同上105頁〕

8月10日の船舶司令部「広島救護計画」では、「広島警備担任司令官ノ収容シアル患者ヲ逐次軍管区並ニ官民機関ニ移管ス」とある。〔「同上118頁〕8月11日に船舶司令部で開催された防衛会議では、「軍隊ノ技術的援助及労力援助ハ今後永続困難ナリ、県及市自体ニ於テ考慮セラレタシ」と申し渡されている。〔同上123頁〕

さらに、8月12日の「広島警備命令」(広警船作命第23号)では、8日から設置していた広島市役所内の戦闘司令所を撤収し船舶司令部に復帰する、代わって連絡所を設置し、広島地区司令部より連絡所長を差出すことを命じている。〔同上127頁〕中国軍管区司令部-広島地区司令部という本来の指揮系統への復帰準備である。

このような段階を経て、原爆投下直後の戦災処理が概成し、新たな中国軍管区司令官が着任したことから、 8月15日、船舶司令官の広島地区警備の任が中国軍管区司令官に移譲されることになった。ただし、中国軍管区司令官は「戦災処理ノ為ノ警備ニ関シ当分ノ間依然在広官民機関ヲ区処スヘシ」 とされた。〔「第二総軍命令等」〕軍に関しては本来の指揮系統への復帰がなされたわけであるが、事実上の軍政状態が続いたわけである8。

このような軍主導の応急体制は短期聞に大きな効果をあげた。「毎日定例連絡会ヲ開催、復旧の緩急順位其ノ他諸対策ノ討議ヲナシ、復旧活動ハ終始一貫全機関秩序アル統制ノ下ニ処理シ得ラレタノレモノト思料ス」 と県知事が評価している。〔「八月六日広島市空襲被害並ニ対策措置ニ関スル件(詳報)」〕また、佐伯船舶司令官は、昭和天皇差遣の侍従への報告(9月3日付)において、「第二總軍司令官統一指揮ノ下在広軍官民渾然一体トナリ其總力ヲ挙ケテ戦災処理ニ邁進シ短期間ニ応急処理ヲ遂行シ得タルハ小職ノ欣幸トスルトコロナリ」と所感を記している。〔『侍従御差遣録』〕

 

5 応援体制

想定を超えた奇襲攻撃にもかかわらず、県内外からの応援、とりわけ県内からの応援が既定計画にもとづき発動された。警察部長は、可部署・海田市署を通じて県下の警察署に対し既定計画にもとづく食糧の応援、警察官・警防団員・救護班員の応援を指示した。

その結果、原爆攻撃当日の 6日午後3時までに乾パン12万食が配給され、同日中に豊田郡の救護班が多聞院に到着し、救護所を開設した。翌7日には、 警察官190人・警防団員2,159人が広島に出動し、各警察署管内の救護班員計300人が来広した。警防団員の出動はのべ2万人を越えた。医師や看護婦などからなる救護班の広島出動は、戦時災害保護法の適用期限である10月5日まで続いた。出動した県内救護班員の総数は、実人員2,557人、のベ人員21,145人、県外救護班の出動は、実人員715人、のベ人員5,397人に上った。このほか、高等女学校の教員・生徒なども救護に動員された。

職員の多くが被害を受けたため、市役所の機能は危機に瀕しており、呉市役所や県などの応援を仰ぐ状況であった。21日の県知事報告でも、「援護復旧作業ノ中心ヲナスベキ広島市役所ハ総員一、二〇〇名中相当ノ死傷者アリタルタメ出勤僅カ八〇名程度ニシテ其ノ機能発揮シ得ズ、県庁並軍関係諸機関ニ於テ直接処理シツゝアル状況ナリ」とある。〔同上〕

県庁の場合、地方機関が県内各地に立地していたので、死亡・負傷した職員を補うため地方機関から職員を動員することができた。9日には、県庁員・関係団体員・応援地方事務所員の出県簿を備えつけ、同時に、死亡者・健康者・負傷者の調査を始めた。県庁職員および家族の合宿所を五日市産報道場とし、パックアップにつとめた。10日には泊り込み職員の宿舎として、東警察署を県庁幹部と警察部関係等、三篠信用組合を県庁員と応援地方事務所員等に割り当てた。〔「戦災記録」111-114頁〕

県は国に対しても職員の転勤、補充を要請している。8月13日、県知事は各省の次官あてに「高等官判任官雇傭員其他何タルヲ問ハス本県ニ転勤方御取計ヒ相煩度、出来得レハ本県出身者又ハ本県ニ勤務ノ経験アル者ナラパ一層好都合ニ御座候」 と要請している。これには、「参考」として死亡あるいは負傷した部長および課長25人の職氏名を掲げている。〔同上129-130頁〕

一方、軍については、宇品の船舶部隊が救援活動の中心になることは事前に想定されていたわけではなかったが、県警察部から空襲への備えとして支援を要請された経験が生かされたと思われる。宇品の部隊だけでなく、船舶司令官の命令により広島市以外に駐屯の船舶部隊も広島入りし、船舶部隊の出動は4,000人に及んだといわれる。呉鎮守府も、広島からの帰来者の報告により、午前11時20分、救護隊派遣準備を命じ、午後 1時25分、 5隊の救護隊を派遣した。7日早朝に広島市内に到着した総武歩兵第321部隊の約160人(前述)をはじめとして、第2総軍の命令により隷下の部隊も相次いで来援した。広島第 1陸軍病院の江波分院と戸坂分院では、被爆直後から救護活動をおこなうなど、各陸軍病院関係による救護活動もおこなわれた。

被害の少なかった宇品地区では、 10日に軍官民の会議を開催した。宇品警備地区復旧事務所を開設し、現官民機構を活用して警備隊 (暁部隊) 支援の下に自主復興を図ることになった。委員長は宇品警察署長で、委員は船舶司令部見習士官・ 宇品憲兵分隊下士官・宇品連合町内会長・宇品警防団々長・皆実町西部町内会長で構成された。取り組む事項は、 市民治安確保、生活必需事項の迅速処理などで、たとえば交通路の整理では、主要線路は軍において担任するも、隣組で担任地区を決めて官民で迅速な復旧を図ることとした。 〔同上124-125頁〕


3 北川実夫の回想によれば、県知事は前日芦品郡府中町の北川鉄工所を視察、翌朝8時過ぎふたたび会社を訪れ、そこに広島からの連絡が入り,会社の自動車で福山の警察署へ送り届けたという。〔「戦後五十年広島県政のあゆみ」281-282頁〕その後、県知事は賀茂地方事務所・西条警察署に立ち寄り、情報を聴取し、両所(署)長に救援を命令したのち広島に入った。〔『県庁原爆被災誌』286-287頁〕
4 広島電鉄本社前で幹部と協議した浜井配給課長は、被災者の食糧を手配するため宇品町の機甲訓練所へ行きトラックを借り上げ、安芸郡府中町の食糧営団倉庫へ向かい、呉から救援にかけつけたトラック1台とともに、乾パンを満載して日赤病院の前へ運んだ。〔浜井信三9-11頁〕
5 浜井配給課長は、県と連絡をとる必要から多聞院に出向いた。〔浜弁信三14-15頁〕
6 柴田助役は、一日遅れて登庁したことを「私は、僅かの負傷で一日を安全に過したこの身が恥ずかしく思われてならなかった」と、また、奮闘する職員について「家族を顧みずして、職務の遂行にのみ専念したこの人達は、普通の言葉では到底表現し得ない、美しい浄い、気高い何物かによって固く強く心のみを結ばれて、戦後処理に当ったものであった。」〔柴田重暉18-19頁〕と回想している。被爆6日目から歩行困難ながら出勤したある職員は、柴田助役から「きついおしかりを受けた」という。助役「君は、あまりけがもないようなのに休むとはなにごとだ」私「足腰を強く打ち、その痛みできょうも無理をしてでました」助役「人手が少ないので、じゅうぶん働いてくれ」〔『原爆体験記』79頁〕
7 広島市の北部の警備は海軍が担任した。海軍撤退後、8月11日から北地区警備隊が置かれ、富士井少将(広島地区司令部司令官)が隊長に任命された。〔「戦災記録」123頁〕
8 軍政状態がいつまで続いたかは不明であるが、8月15日に「地区司令部主催連絡会議」、その後知事と軍首脳との来往があり、8月20日に総監府で「各官公衙長連絡会議」が閣催されている。8且16日以降、軍主催の会議の記載がないところから、早ければ8月16日、また、「各官公衙長連絡会議」の開催をもって常態に復したと考えれば、8月20日に軍政状態が解除されたと推察できる。なお、柴田広島市助投は、「十五日の無条件降伏の報が伝わるや、その翌日からは誰一人この定例会議に姿を現わさなくなった。……県庁に赴き協議の結果、翌日からは県知事の名で召集することに改めたら、ようやく従来通り顔が揃うようになった。」と終戦とともに軍は手を引いたと回想しているが〔柴田重暉22頁〕、第2総軍岡崎清三郎参謀長は、「総軍は戒厳令をしく、戒厳令は終戦後に及ぶ」と、軍政状態(岡崎は「戒厳令」と表現しているが)が戦後にも続いたと回想している。〔安藤福平〕

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