Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol4Ⅶ 支援の広がり
1 牛田での建設
1952年には,牛田で家づくりが始まった。広島市では以前と比べて土地の値段が高騰し,牛田の土地を27万5,000円(約750ドル)で購入した。この金額は,江波で土地を購入した時と比べて1坪につき4倍程度であった。シュモー氏が再び来日し,アメリカからのボランティア,東京からのボランティア,広島の地元の学生,1日単位でボランティア活動を行う人も加わった。
1952年には,2階建の建物がつくられた。4世帯が住むことができるアパートで6畳1間に台所,トイレが付き浴室は共同だった。家庭菜園を設けられるスペースもあった。1953年度には,アパートの隣にゲストハウスが建てられた。当初,広島を訪れた外国人が利用できることを考えていた。ゲストハウスを利用することによって支援活動を行う人は家族で来日し,長く滞在することができる。さらに周りの日本人家族と交流することで理解や善意が生まれることを期待した。もちろん,支援活動のためではなく広島を訪れた人々も利用できる86。またこの場所は,広島市の水道管から少し離れていたため,「広島の家」の費用で市が住宅まで水道を供給できる設備を整えている87。
2 長崎での活動
「広島の家」の活動は,もう一つの被爆地,長崎でも行われた。長崎では1950年から市内の山里小学校の西側の土地で家づくりが始まった。1950年の時は,1棟につき13万円の費用で3部屋ある日本家屋を5軒建設した88。また,長崎でも広島の “Eba Village” と同様の一つのコミュニティを作ることが構想されていた。報告書に記された図面では,敷地の中央にコミュニティハウス(図面上ではコミュニティセンター)と庭園があり,その周りを取り囲むように住宅を建てることが計画されている。長崎のコミュニティハウスは,広島のコミュニティハウスが建てられた年と同じ1951年に建設された。当時の写真を見ると,図面で計画されていたように敷地の中で一段高い土地にコミュニティハウスが建っている。2階部分のある建物だった。長崎のグループのリーダーであったジム・ウィルソン氏が指揮を執り,広島での作業を終えたオードソン氏やウォーキンショー氏,日本人の学生ボランティアも加わって協力しながら建物がつくられた。長崎でも地元の大工が作業を手伝った。1950年から1952年にかけて長崎では8戸の住宅と1棟のコミュニティハウスが建てられたことが報告されている89。現在の長崎には当時の建物は残っていない。住宅のあった場所に建つアパートに名付けられた長崎市営シュモー住宅の名称が当時を物語っている。
86 Floyd Schmoe, “PROGRESS REPORT NOVEMBERER 1952,”Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box 12, Folder16.
87 Letter from Shinzo Hamai to Floyd Schmoe, February 26, 1953, Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box 12, Folder4.
88 Floyd Schmoe,“TERMINAL REPORT 1950,” Floyd W. Schrnoe Papers, 1903-1993,The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box12, Folder16.
89 Floyd Schmoe,“PROGRESS REPORT NOVEMBER 1952,” Floyd W. Schmoe Papers, 1903-1993, The University of Washington Libraries, Special Collections, Accession No.0496-008, Box 12, Folder16.