原子という寓話
2020年は広島・長崎に原子爆弾が投下され75年目となります。
「広島県史 原爆資料編」に掲載されている原爆に対する国際的反応:海外の新聞論調を紹介します。1945年8月6日に広島,8月9日に長崎に投下された原子爆弾について海外の新聞はどのように報じたのでしょうか。
本県が進めている国際平和拠点ひろしま構想の趣旨と合致しない論調も含まれますが,原子爆弾投下を海外でどのように伝えたか知っていただくため 「広島県史 原爆資料編」に掲載されている新聞論調をそのまま掲載しています。
原子という寓話
昭和20.8.9 サン・フランシスコ・クロニクル紙
[カリフォルニア州・ベイ・マイクロフィルム社蔵]
市井の人は,原子に関して,原子は存在すること,そして想像を超えた小さなものであるというほか,あまり知っていない。この程度の知識は部分的に,実は科学よりも少しばかり進んでいる。というのは問いつめられれば,科学は,原子は存在するだろうと考えるだけであって,原子というものは,もろもろの事象に適合するかに見える一つの仮説なのだ。人はその仮説の世界にある原子でもって,いろいろのことができる。たとえがそれを核分裂させ,その結果,広島を灰燼に帰することなどである。しかしこれとて,すべてのことが頭の中でつくられたものと人間は認めている。そのすべてのこととは,いうまでもなく,広島とか,われわれが通常,宇宙といって知っているものや,その他森羅万象をふくむのかも知れない
そういう事情のもとでは,原子についてのいろんな寓話は大きく,でっかく,かっこいいものまで,色とりどりとあるだろう。25年前は無線電信についても人々が持っていたもの,今日で言えば火災,洪水,旋風,精神薄弱,ひづめや口腔の病気等が,レーダーの悪影響によるものと考えるように,原子力についても恐ろしい想像をすることができよう。
現にそれに似たことが,ニューヨークのハロルド・ジャコブソン博士によっても言われている。すなわち,原子爆弾の爆発の影響は,70年間広島に執拗に残り,そこに近づいた人の誰にも恐ろしい影響が遺るだろうと。
(小倉 馨訳)
〔注 この説は,75年広島に生物が棲息することができないという噂の根元のようである。しかしそれは米国の科学者団により否定され,本人(ジャコブソン)も同意したが,単に物理的なレントゲン量は大部分消失したにしろ,今日の後遺症の現実を見るにつけ,あながち寓話として片づけられない気味悪さを感じさせる。〕
出典 広島県史 原爆資料編
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