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国際平和拠点ひろしま

峻厳な一つの選び

2020年は広島・長崎に原子爆弾が投下され75年目となります。

「広島県史 原爆資料編」に掲載されている原爆に対する国際的反応:海外の新聞論調を紹介します。1945年8月6日に広島,8月9日に長崎に投下された原子爆弾について海外の新聞はどのように報じたのでしょうか。

本県が進めている国際平和拠点ひろしま構想の趣旨と合致しない論調も含まれますが,原子爆弾投下を海外でどのように伝えたか知っていただくため 「広島県史 原爆資料編」に掲載されている新聞論調をそのまま掲載しています。

峻厳な一つの選び

昭和20.8.8 クリスチャン・サイエンス・モニター紙

[ミシガン州・ユニバーシティ・マイクロフィルム社蔵]

既報の原子爆弾の威力について,現象面の記述・報告は,われわれが最初の公表に接した際に衝撃とともに念頭にした危惧・憂慮のいくつかを裏付け,確かめつつある。

閃光一瞬にして稠密都市四平方マイルが消滅し,損傷はさらに広範な地域に及び,放射能は,その道の専門家によれば,当該地域を25年ないし75年にわたって棲息不可能にし,爆発は10マイルをへだてて飛行中のB29一機を激しくゆさぶり,その搭乗員の視力をしばし奪い,粉塵と化した物質は雲柱となって4万フィートにたち昇る,等々……それらは人間を閉じこめている先入観の厚い壁をも微塵に吹き飛ばさずにはおかない。われわれの想いは,翼をえて高く舞い,人間の無限の潜在能力と美との新しい地平を——さもなくば,恐怖と荒廃の極まる地平を——望見し,目測する。

これら報道に対する一般の反応のうち,しだいに頭をもたげつつあるのはほかでもない,この計り知れない壊滅の兵器が,おそかれ,はやかれ,われわれの頭上に回帰して来ることは必定だという認識である。連合国側指導層ですら,この兵器の使用に先だって,それが果して「聡き」ことであるかどうかについて懐疑的であったと聞く。また当初の判断は,この兵器の手綱は解かないでおくということでもあったが,その「発進」にトルーマン大統領が承認を与えたのは,日本人側があくまでも米人捕虜を軍事目標たる工業生産施設周辺に配することを譲らないにいたってからのことであったとも聞く。

日本の指導層が,降伏をめぐって動揺しているのが誰の目にも明らかな現段階において,彼らが原子爆弾のかくまでの破壊力と,今後もそれが続くものという事実とを前にして,戦争終結への決断を迫られるであろうという希望も一応考えられよう。

われわれ米国人としては,一発の原子爆弾がよくニューヨーク市マンハッタン地区の中心部全域を灰燼に帰せしめうることを聞き知れば,米国の原子爆弾でわれわれが粉砕し,焼き払った都市に居あわせた者が人間男女であり子供たちであったということに思いいたるであろう。とはいえ,ことここにいたって,米国国民が,「日本に第2の真珠湾を許さないために」という今次大戦の目標を降ろしてしまうということは考えられない。しかも,それはそれとして,全国民が,今こそまじろがず峻厳な一つの選びに直面して,失うところはないと思われる。ギリギリの選び,「殺すか,殺されるか」は,われわれ米国人だけではなく,人類一般が「現代戦」を行なうかぎり避けられない遊びである。

米国民が,この際において,戦争という事態がやむをえぬものとして見すごすには,すでに,あまりにも醜悪・苛酷なものになってしまったという,高い認識に起き上るとすれば,それはまさにわれわれの身のためになることである。無辜幾百万の生命を殺戮するという代価を支払わずして,国家間犯罪の生起を押さえるすべを手中にするためには,人間の精神は今一歩の前進を必要とする。

(片柳 寛訳)

出典 広島県史 原爆資料編

 

 

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