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国際平和拠点ひろしま

似島と戦争・原爆

   

広島市南区の広島港(宇品港)からフェリーで20分いくと,のどかで美しい似島(にのしま)に到着します。ちょっとした登山をして,安芸小富士の山頂(標高278m)から瀬戸内海の眺めを楽しむこともできるし,島の周りをサイクリングすることもできます。カヤックで瀬戸内海へ出てみれば,日常を離れ,爽快感を味わえるおすすめスポットです。

 

今回は,広島市が実施する「似島歴史ボランティアガイド養成講座」の講師で,郷土史研究家の宮崎佳都夫さんに,似島と戦争・原爆についてお話を伺いました。

似島が,近代日本(日清戦争~太平洋戦争)の戦争に深く関わってきたのは,島内に陸軍の検疫所が設けられ,戦地から戻った兵士達が初めて日本に上陸する地の1つとなったことが,大きく関係しています。

郷土史研究家 宮崎佳都夫さん
出典元:似島の口伝と史実

なぜ似島に検疫所ができたのか。


日清戦争開戦前の1894(明治27)年6月10日に山陽鉄道が広島まで延長され,日清戦争の開始(宣戦布告)後には軍用宇品線が完成(8月4日)し,9月15日に大本営を東京から広島(第5師団)に移すとともに,明治天皇が広島に到着し,10月18日に臨時帝国議会が開催され,正に臨時首都となったことが大きな要因と考えられます。
また,全国の多くの師団や連隊が広島に集結して宇品から出兵したことで,広島への帰還兵も同様に多数となったことや,地勢的にみると似島が宇品と対峙する近距離にあったこと,ある程度の水(山水)が確保可能な場所であり,検疫業務の利便性が考慮されたと思われます。

1 日清戦争(1894年-1895年)

日清戦争が開始すると,朝鮮半島からの帰還兵達が,病原菌を持ち込み,日本国内では赤痢やコレラが大流行しました。これを危惧した帝国陸軍は,全国3カ所[似島(広島)・彦島(山口)・桜島(大阪)]に検疫所を設けます。1895年(明治28年5月),後藤新平事務官長の計画の下,約2ヶ月間という短期間で,東洋一と誇る似島陸軍検疫所(第一検疫所)(現在の似島学園がある場所)が, 最初に設置されました。

後藤新平の銅像(似島学園内)

2 日露戦争(1904年-1905年)

1904年(明治37年)に,日露戦争が勃発すると,船舶・人員の検疫数は日清戦争時の5倍に及んだため,第2検疫所(消毒所)(現在の広島市似島臨海少年自然の家,広島平和養老館の場所)が増設され,1日の処理能力8千人という大規模検疫所になります。

陸軍第二検疫所(広島検疫所資料)
陸軍第二検疫所施設図  提供:広島市似島臨海少年自然の家

●似島俘虜(ふりょ)収容所

1905年(明治38年),似島俘虜収容所が設置されます。日露戦争で俘虜※となった7万2千人のうち,大多数(5万1千人)が似島検疫所で検疫を受けた後,全国に急遽設置された24カ所の俘虜収容所へ宇品停車場から列車で送られました。似島のロシア軍俘虜も同年1月12日から19日までの8日間で延17,015人に上りました。

※戦争で敵軍に捕らえられた者のこと。第二次世界大戦まで日本陸軍では俘虜(ふりょ)と呼んでいた。

3 第一次大戦(1914年-1920年)

第一次大戦が勃発すると,1914年(大正3年),青島(ドイツ租借地)で降伏したドイツ軍俘虜が日本に護送され,各地に分散収容されます。続いて,1917年(大正6年)には,大阪のドイツ軍俘虜収容所を似島に移転させることが決まり,俘虜545名が大阪から似島に転収容されてきます。
1920年(大正9年)に俘虜収容所が閉鎖されるまでの3年間,似島収容所における俘虜は,収容所内で様々な文化活動を行っていました。その様子は,俘虜による講習会(各種語学,数学,機械工学,建築工学,電気学,経済学,法学,歴史,速記など)が開催され,新聞が発行され,商業活動,芸術活動などが営まれていたこと,地元の子供達が俘虜に,当時は珍しかったお菓子をねだって,もらっていたという島民の証言からも,窺い知ることができます。

ドイツ軍俘虜のサッカーチーム 所蔵:宮崎佳都夫

彼らは自国ドイツの進んだ工業技術などを紹介する独逸俘虜製作品展覧会を広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開催したり,広島高等師範学校においてサッカーをはじめとする各種スポーツの競技会や音楽会を開催するなどして,広島市民を驚愕,感動させました。
収容者の中には,バウムクーヘンで有名なカール・ユーハイムがおり,ハム・ソーセージ製造で有名なヴォルシュケは,ケルン,シュトルの3名で広瀬町にあったハム製造会社の酒井商会で製造技術の指導を行っています。

 

●陸軍広島兵器支廠似島弾薬庫

1921年(大正10年),それまで広島市南区皆実町にあった兵器支廠弾薬庫が大爆発を起こし,大きな被害がでたため,1922年(大正11年)に似島へ移転され,それまでの第一検疫所(現在の似島学園の場所)は,兵器支廠弾薬庫や運輸部似島倉庫として使用されることになりました。
その後,1931年(昭和6年)に満州事変が,その後に日中戦争が始まると,宇品(広島港)からは多くの師団が出発し,大きな師団が帰って来ると,似島尋常小学校の児童が検疫所で帰還兵を出迎えました。

 

●陸軍馬匹検疫所

1940年(昭和15年)には,大陸から日本へ帰還する病傷馬・交代馬の検疫を行うため,現在の似島小・中学校の場所を強制買収して,陸軍馬匹検疫所が設置されます。

馬匹検疫所

4 第二次大戦(1941年-1945年)

1941年(昭和16年)12月,日本が太平洋戦争に突入すると,戦況は島にさらに大きな影響をもたらしました。この頃,似島小学校の児童は,度々,兵器支廠で勤労奉仕を行うようになっています。

 

●陸軍燃料貯蔵基地

1942年(昭和17年)には,長浜に,陸軍燃料貯蔵基地が建設されました。

●特攻隊(海上挺進戦隊など)訓練基地

1944年(昭和19年)夏からは,ベニヤ板で作った小さな舟艇を用い,ドラム缶の爆雷を積んで敵艦に突撃する四式肉迫攻撃艇(マルレ)と半潜水攻撃艇(隊)(マルハセ)のいわゆる海上特攻隊の教育訓練に,深浦地区や検疫所の一部などが使用されました。この部隊(陸軍船舶練習部第十教育隊)が秘密部隊であったことや,地区施設への立入禁止措置が取られていたこと,またその期間が1年足らずと短かったことから,この史実は,世間ではあまり知られていませんが,海岸には当時を偲ばせる石垣組みの「スベり」(桟橋)が2基残っています。

深浦地区スベリ 提供:益本礼美

●高射砲陣地
 戦争末期の1945年(昭和20年)には,間小屋とサルババの山の上に高射砲陣地が構築され,間小屋の高射砲が,7月下旬広島湾内に飛来した米軍のグラマン機を撃墜したという記録が残っています。
 戦争末期には日本軍が制空権,制海権を失ったことから,外地(戦闘地域)から帰還する船舶,将兵は極めて少なくなり,似島検疫所の検疫業務も激減しました。一方で原爆投下前,似島検疫所には大空襲時の備えとして,医療材料や医薬品が備蓄され,臨時救護所に指定されていました。

●臨時野戦病院(第2検疫所)[8月6日~25日]

1945年8月6日の原子爆弾の投下を受け,日本陸軍船舶司令部(通称「暁部隊」)が,重傷者を手当する場所として似島検疫所を選定したため,似島検疫所は臨時野戦病院となり,被爆者を収容します。当時,似島の人口は1,751人でしたが,通勤通学で市中へ出ていた人々108名(被爆後1ヶ月内)が犠牲になりました。爆心地からの直線距離は一番近い島の北端で約8km。
8月6日は朝10時頃から広島市中で被爆した負傷者が船で続々と運ばれてきはじめました。
その後もひっきりなしに負傷者が運ばれ,暁部隊の兵士や少年特攻兵等による必死の収容,治療,看護業務が昼夜を問わず行われましたが,似島町でも島民はこぞって負傷者の搬送,収容や看護など地域を挙げて協力し,献身的な救護活動にあたりました。収容者数は1万人余だったと云われています。
関係者の証言や後に発掘された遺骨数からの推測で,運ばれてきた方のうち,約7割の方が亡くなられたと推計されています。

1945 年8月7日の桟橋
(作者:花里儀一/所蔵・提供:広島平和記念資料館)
似島検疫所での救護や死者が焼かれている様子
(作者:後藤利文/ 所蔵・提供:広島平和記念資料館 )
被爆者が運ばれた桟橋(原爆投下から3か月後の似島) 所蔵: 宮崎佳都夫

犠牲者の火葬は10日頃から開始され,最初は丁寧に一体ごと火葬に付されていました。しかし,やがて死者の急増により,火葬する手間もかけられなくなり,身元不明のまま多くの遺体を隣接する陸軍馬匹検疫所の構内を中心にした各所に土葬したということです。そのため戦後,このあたりでは度々,犠牲者の遺骨が収容されています。

9月になると検疫所職員等が馬匹検疫所構内に遺骨を集めて供養塔(千人塚)が建てられました。その後,1955年(昭和30年)7月,似島の遺骨約2,000体は,平和記念公園内の「広島市戦災死没者供養塔」に合祀されています。

遺骨発掘跡地

5 原爆・戦災孤児施設 似島学園

戦後,原爆孤児らの街頭での姿を目のあたりにした森芳麿氏(初代園長)や吉川豊氏(第2代園長)らは,仮収容所でなく,養育施設の必要性を訴えて県や市に援助を要請しました。これにより,戦時中,国に没収されていた陸軍兵器支廠及び陸軍運輸部倉庫の跡地を国から借り受けることに成功し,戦災児教育所「似島学園」を設置する話が具体化しました。

1946年(昭和21年)9月はじめ,広島駅付近の浮浪児34名が「狩り込み」と呼ばれた一斉保護により収容されます。同時に行政側の要請により,園長先生や職員が突貫工事を行い,似島学園は1ヶ月予定を早めて,開園にこぎ着けました。

1951年(昭和26年)には,精神養子運動の提唱者であるノーマン・カズンズ氏も来園しています。
※「原爆孤児」と呼ばれた子どもたちの養育を支援したのが「精神養子」運動である。
(詳細:https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol3/3-14/

開園の日 提供:似島学園

ノーマン・カズンズ氏  提供:似島学園

2003年11月27日,亡くなった俘虜の慰霊と日独友好を願って,ドイツのデュッセルドルフにある独日文化交流育英会から,菩提樹が寄贈されました。

広島市似島臨海少年自然の家敷地内

このように似島は,美しい海や山を楽しむ絶好のレジャー・スポットであるとともに,近代日本の戦争や原爆と深い関係がある場所です。
ぜひ,皆さんも,島の自然に癒やされ,海や山を満喫するとともに,島に点在する歴史スポットにも足を運び,この島が経験してきた歴史に思いを巡らせる,充実した時間を過ごされてみては,いかがでしょうか。

【参考文献等】

・似島の口伝と史実(似島連合町内会,郷土史編纂委員会)
・もうひとつのヒロシマ(仲里三津治)
・ふるさと似島(平和学習参考資料)
・郷土史研究家 宮崎佳都夫氏へのインタビュー(2020年10月)

 

似島へのアクセス

広島港から似島行フェリー20分

    

      

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