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国際平和拠点ひろしま

路面電車が被爆から3日以内に動き始めたと聞いたがどうやって動いたの?誰が運転してどういった人が乗車したの?

路面電車は,電気を動力としていますが,被爆後,市内線に電気を供給する櫓下変電所(やぐらのしたへんでんしょ)は壊滅しました。もうひとつの千田町変電所も機能を停止していました。また,電柱は842本中,393本が倒壊し,レールは一部,飴のように曲がり,架線は約10万mのうち,9万4千mが損害を受け,地面に落ちたものはグシャグシャにもつれて散乱していました。

まず,大阪駐留の東京電信隊(電柱を建てたりする専門部隊)がただちに広島へ送り込まれました。広島に派遣された電信兵は30~40名。広島電鉄側は架線技術者が全滅していましたが,車両課の人間5,6名が,電信兵とともに復旧作業を開始しました。

電信隊の活躍はめざましく,焼け野原には,見る間に電柱が立ち並んでいきました。

8月8日午後,宮島線廿日市変電所から電力供給を受け,試運転を行うことができ,翌9日,試運転を無事終えた「己斐」~「西天満町」間で,電車の運行が再開しました。

運転を再開した8月9日当日,電車を運転したことが判明しているのは16歳の山崎政雄さんと家政女学校の少女運転士・雨田豊子さんです。他に,宮島線の運転士もいました。山崎政雄さんは被爆当時,己斐駅で信号切り替えを担当していました。先輩たちと比べて軽傷だった上に,運転士の経験もあり,前日の8月8日に行われた試運転も行いました。

また,乗務した車掌は家政女学校の生徒である尺田哲子さん,笹口里子さん,堀本春野さんでした(他に1~2名の存在も証言に残っています)。

再開した電車の乗客は,主に,市内へ肉親を捜しに行く市民たち,あるいは市外へ脱出する怪我人たちでした。電車は単線のピストン運転で,運賃を取らずに彼らを運んだそうです。

 

参考書籍:「被爆電車75年の旅」,2017年,株式会社ザメディアジョンプレス

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