平和とグルメ 青柳屋
原爆投下の惨禍を乗り越えて復興を遂げ、今や地元の人にも観光客にも人気の飲食店が軒を連ねる広島。そんな飲食店は、戦時中や戦後をどのように歩み、現在に至るのか。そして、その歴史の中で見つけた“平和”とは何なのか。
今回は、昭和13年(1938年)創業の和菓子店『青柳屋』で商品開発を手がける馬場寛親さんに話を伺いました。
命あることに感謝し懸命に働く
製造と開発を担う馬場寛親さん
『青柳屋』の歴史は、一軒の饅頭屋から始まりました。その店の店主が徴兵された際、祖父である馬場高義に声をかけ、自身の代わりに店を営んでほしいと依頼。祖父はもともと羊羹屋で修業を積み、和菓子作りの技術を持っていたため目に留まったのだと思います。依頼を快諾し店を守っていましたが、戦争に出ていた店主は、その後ひどい怪我を負って戻って来たそうです。商売を続けられる状態ではなく、「このまま店を譲りたい」という店主の言葉を受け入れ『青柳屋』として再出発することになりました。祖父が原爆投下時に命を失わずにすんだのは、たまたまその時配達に出ていたから。偶然生かされた命、一生懸命生きようとあらためて誓い、それからはがむしゃらに働き続けたようです。
戦時中から昭和27年(1952年)までは、砂糖が配給制だったため原料の入手が困難で、同業の方達と助け合いながら、細々と菓子を作り提供していました。その後、モノが必要とされる時代になってからは、作る端から飛ぶように売れたといいます。
創業当時の「青柳屋」
時代に寄り添う菓子の存在
冬季限定の「壺しるこ」
『青柳屋』の看板商品はいくつかありますが、創業時から変わらないのは「壺しるこ」(冬季限定)。つぼ型の最中に乾燥餡を入れたもので、お椀に入れてお湯を注ぐとお汁粉ができます。また、高度経済成長期頃に誕生したのが、今はない「瀬戸内慕情」。カステラに栗餡を合わせた商品でお土産用に開発されたそうです。現在人気を誇っているのは、東北を発祥とする「かりんとうまんじゅう」。店に専用フライヤーを設え、その日揚げたものだけを出しています。和菓子というと「伝統を軸にした不変の味」と思われがちですが、時代に合わせ進化させるのも大切です。
商品の向こうにある笑顔を想像して菓子作りにあたり、お客様に喜んでもらえるものを提供する姿勢は今も昔も変わっていません。戦時中や戦後は辛い人々の心を癒すものとして、穏やかな時代になってからは豊かな暮らしを彩るものとして菓子は存在したのでしょう。「いただくたびに喜びの日が蘇るお菓子作り」という青柳屋のコンセプトは、そんな歴史的背景から生まれた言葉なのだと思います。
人気の「かりんとうまんじゅう」
菓子は“平和の象徴”
現在私は、後進の育成にも力を入れています。小学校で菓子作りの出前授業を行ったり、専門学校で非常勤講師として教鞭をとっています。子どもたちに伝えたいのは、ものづくりの楽しさと和菓子の歴史。仏様のお供え物から始まり、茶の湯文化と共に広まった和菓子。昔は大変高価なものだったので、将軍や公家など限られた人しか口にできませんでした。庶民の間に定着したのは長い戦が終わった江戸時代に入ってから。世が平定され、人々は存分に大福や団子を堪能することができたのです。
菓子はいわば“平和の象徴”。和菓子は長い戦国期を経て庶民の時代となった江戸時代に入り、特に進化しました。戦時中は、冒頭にも言いましたが砂糖の調達が難しく、作ることすらままならなかったのです。争いに苦しむことなく、穏やかな時間の中で楽しめる状況でこそ人々に求められます。そんなルーツを子どもたちに伝えながら、菓子が求められる平和な時代がいつまでも続いてほしいと心から願っています。
プロフィール
青柳屋 本店
https://in-smart.co.jp/shop/aoyagiya/
創業者の馬場高義が前身の饅頭屋を譲り受け『青柳屋』として開業。店名は京橋通りで風になびく柳の様子から命名。二代目・馬場悦行の経営を経て、現在はコンサルティング事業を主とするインスマート株式会社が経営を行い、孫にあたる馬場寛親が製造と商品開発を担っている。福屋広島駅前店内にある『和菓匠 あん寿』は姉妹店。
平和学習事業の紹介
SDGsから考える食と企業
広島県は国連が定めた持続可能な開発目標(SDGs)の達成に向け,SDGsビジネスを促進する企業の事例集を作成しています。 目標2「飢餓をゼロに」に取り組んでいる企業はこちらからご覧ください。
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