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国際平和拠点ひろしま

Hiroshima’s Reconstruction Vol.18広島の復興シリーズ Vol.18:被爆者医療の実態と展開

1945年8月6日に広島に原子爆弾が投下されて75年。

原子爆弾により壊滅的な被害を受けた広島は,今日,国内外から「復興を成し遂げた街・平和を模索する都市」というアイデンティティが認知されています。

広島の復興の過程をとりまとめた「広島の復興経験を生かすために‐廃墟からの再生‐第1巻」を基に,広島の原子爆弾による被害からの復興を紹介します。

Vol.18では,「被爆者医療の実態と展開」について紹介します。

被爆者医療の実態と展開

被爆直後の救助活動

被爆直後、広島の医療従事者は被爆した医療施設だけでなく学校、寺院、橋、道路、公園などを利用してできた救護所において被爆者の治療を行なった。他県からの応援だけでなく赤十字国際委員会の駐日主席代表であったマルセル・ジュノー博士による支援など国際支援もみられた。

戦災時の救護活動は60日間と定められていたため、昭和20(1945)年10月5日で救護所は閉鎖された。この間に救護された被爆者は、広島県が把握しているだけでも31万人を超えた。閉鎖時点でも救護所には収容者や外来患者が治療を受けていたため、何らかの対策は必要であった。広島県は、日本医療団と相談し三篠病院などを開設し日本医療団病院として被爆者医療と一般診療を行うことになったが、施設が不充分なことや被爆患者が減少したことによりしだいに閉鎖された。

被爆者医療・研究

昭和20年代初期から広島の医師たちは被爆者医療や研究に取り組んでいた。特に、医師8人によって設立された土曜会では被爆者医療について研究し、被爆者に癌が多いという調査結果を発表するなどし大きな反響を呼んだ。

また、「原爆乙女」が東京、大阪、アメリカにおいて治療を受けるという報道がされた際に、広島の医師たちは治療は地元医師でという意向のもと被爆者の無料診断に向けて奔走した。結果、昭和28(1953)年1月13日に広島市原爆障害者治療対策協議会(原対協)が設立され、被爆者の無料治療が開始された。


参考

 

https://hiroshimaforpeace.com/fukkoheiwakenkyu/vol1/1-42/

 

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広島の復興経験を生かすために‐廃墟からの再生‐第1巻

広島県と広島市が連携して実施した「ひろしま復興・平和構築研究事業」の成果を「広島の復興経験を生かすために‐廃墟からの再生‐」として取りまとめました。

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