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国際平和拠点ひろしま

第Ⅰ部 広島復興小史 はじめに

第2次世界大戦の結果,日本では200か所以上の市町村が空襲を受けて焼野原となった。戦後,全国115の都市で国による戦災復興事業が行われる中,被爆地・広島は当初,通常兵器による空襲で破壊された他の都市と同列に扱われ,その後も広島の復興ぶりが特に注目を浴びることはなかった。ところが,平成23(2011)年3月11日の東日本大震災による福島原発事故の発生後,「フクシマとヒロシマ」が一緒に語られ始め,広島の復興が新たに注目されるようになった。
世界に目を転じると,現在も各地で紛争や内戦が発生しており,例えばアメリカ同時多発テロ後のイラク戦争やアフガニスタン戦争で破壊された地域のように,復興自体が平和のための大きな課題となっている。もとより焼野原からの復興を遂げたのは広島だけではない。しかし,破壊地域で復興事業に携わる関係者をはじめ,広島を訪れる人たちの多くが,復興を成し遂げた街・広島を見て驚きの声を発し,平和記念資料館を見学した後,広島の街を歩き,広島の復興について知りたいと語る。いったい,彼らは広島のどこに復興の姿を見出し,何を学びたいと感じているのだろうか。
広島が受けた原爆による被害や破壊の内容には,通常兵器の空襲を受けた他の都市と異なるいくつかの特徴がある。そしてそれは,そのまま復興の課題へと直結した。
第1に,他都市と比べて死亡率や罹災率が高く,広島市都心部に集中していた都市の中枢機能がほぼ完全に壊滅した。昭和20(1945)年8月6日の原子爆弾の投下で,広島市の人口の約40パーセントに当たる約14万人がその年のうちに死亡したといわれ,被爆直前に市内に存在していた建物7万6,327戸のうち,約92パーセントに当たる7万147戸が倒壊・消失した。加えて,市の総面積から山林や原野などを除いた利用面積約3,300万平方メートルのうち,約40パーセントが焦土と化した。
第2に,広島の住民の多くが核兵器の放射線による被害を受けたことである。原爆固有の被害への対策が,戦後広島の行政の大きな課題として残った。
第3に,広島は,「軍都」から新たなアイデンティティーへの転換を図り,結果として「国際平和文化都市」の形成に結びつけた。明治以降,軍事上の重要な機能を持つ軍都として発展した広島は,敗戦と旧日本軍の解体,そして「平和憲法」のもとで,新たなアイデンティティーを作り上げようと模索した。復興のため,行政や経済界,地域住民などを含むコミュニティが一体となり,政治・経済・文化を巻き込んだ多様な営みがなされ,「平和」をアイデンティティーとする今日の広島が徐々に形作られたのである。
以下では,まず近代史における広島の歩みを概観し,次いで戦争の時代と原子爆弾の投下,そして廃墟からの再出発,復興に至る軌跡をたどってみたい。

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