5 再開発,復興に伴う痛み
繰り返し示唆したように,復興に向けた街づくりは決して容易なものではなかった。広島復興都市計画において,道路や公園,河岸緑地として計画決定された場所には,住む場所を失った人々により「不法に」住宅や店舗が建てられていた。復興の第一歩は,強制執行による不法建築の撤去から始めざるを得ない厳しい現実もあった。
例えば,後年,平和記念公園となる中島地区は,被爆までは一般住宅や商家,娯楽施設が密集する地域であった。爆心地から500メートル圏内という至近距離だったために,被爆による被害は甚大だった。戦後,この地域が広大な公園用地として指定されたため,住民たちは区画整理による換地先にバラバラに近い状態で転居を余儀なくされ,コミュニティの再建はもはや困難となった。
土地の権利を有する人々は,それでも換地で得た新たな土地で生活することができたけれども,そのような基盤のない住民は「不法に」住宅を建てて住まざるを得ない状況も生じた。これらの不法建築住宅も,公園の建設が進む中で次第に立ち退きを迫られていった。
現在の基町地区は,明治時代から被爆前まで軍事施設が林立するなど,軍都広島を象徴する街であった。ここも爆心地からほぼ1キロメートル圏内であったために壊滅的な打撃を受けた。基町の旧軍用地は,復興計画でその西側の大半が公園用地に指定された。他方で,深刻な住宅不足への当面の対策として,広島市や広島県などにより仮設住宅が建設された。
昭和24(1949)年ごろの基町地区には,1,800戸もの公営住宅が広がっていた。ただ,住宅不足は深刻で,土地を持たない人々によって太田川の土手沿いに不法建築住宅が立ち並んだ。その後,老朽化した公営住宅を中層住宅団地に建て替えた
が,それでも密集した老朽住宅や不法住宅を整理することができず,この地域の再
開発が戦災復興事業の最終段階における大きな課題となった。
昭和44(1969)年3月,国から「広島市基町地区」の名称で改良地区の指定を受け,基町地区の再開発事業が開始された。不法建築を撤去しつつ緑地を整備し,基町・長寿園高層住宅群が住宅改良事業として建設された。住宅に加え,店舗や屋上庭園,ピロティなども整備され,今では基町高層アパートは,広島の復興の歴史を物語る建築群となっている。