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国際平和拠点ひろしま

Q12 なぜ広島は短期間でインフラや文化を復興できたのか?

様々な考え方があるが,いくつかの側面が指摘できる。
●占領政策
米国を主体とする連合国軍総司令部(GHQ)は,日本の中央・地方の行政・警察組織について,戦争犯罪に問われた一部指導者を除けば,基本的には温存したまま統治を行ったため,敗戦および日本の降伏後も国内の治安は大きく乱れず,内戦や革命などの混乱は起きなかった。


●新しいアイデンティティー
戦前・戦中の日本は天皇を主権者とし,とりわけ日中戦争開始後は,軍国主義的な色彩が濃くなっていったが,戦後は新憲法の下,平和国家として再出発することを,大半の国民が受け入れ,「二度と戦争は起こさない」という平和主義が新たなアイデンティティーとして定着し,国民全体が生産活動に従事することができた。
広島も同様に,戦前の「軍都」から「平和都市」という新たなアイデンティティーへの転換を市民が受け入れ,復興に従事した。


●国家や行政主導の復興政策
 戦災からの復興は日本の国家的な課題で,昭和20(1945)年には戦災復興院が国策として着手した。広島はそれに加えて「広島平和記念都市建設法」という特別法の制定により,国から財政的に手厚い支援を受けて復興を加速させることができた。


●社会システムの連続性
日本は1868年の明治維新以降,欧米を手本に,政治も法律も経済も文化も教育も含む社会の近代化を目指した。敗戦で国家は一時的には疲弊し,GHQにより社会全体に一定の改革が行われたが,民法や行政機構などは戦前のものが継続されるなど,社会システムは一定の連続性も保っていた。このため,現代の紛争終結国家のように,ゼロからの出発を余儀なくされている国家に比べれば,日本は社会全体がこれまでの蓄積を活かしながら,復興を目指すことができた。


●広島の産業構造と労働人口
人口に比較し,製造業が集積していた広島市では,原爆投下により事業所も労働者も大きな被害を受けた。しかしながら,主要工場が爆心地から離れ,施設の被害が比較的小さかったこと,広島県の従業者数に占める職工の比率が戦前・戦後を通じ,全国平均より高めであったこと,女性職工等の職工の厚み,軍事施設の民間転換,特に製造業への円滑な転換,さらには朝鮮戦争による特需も復興に大きく寄与した。

[*]復興を目指している国の皆さんへ
 あなたの国が直面している復興のための課題と,広島の復興のプロセスを,是非,比較してみてください。共通する側面もあれば,全く異なっている側面もあるでしょう。復興の道筋は,国や地域ごとに違います。皆さんの国や地域に最もふさわしい復興のあり方を考えてください。そのために,広島の経験が少しでもお役に立てることを願っています。
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