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国際平和拠点ひろしま

column 1 お好み焼と広島カープ

永井 均

はじめに
昭和50(1975)年10月15日,広島市新天地の「お好み村」のにぎわいは尋常ではなかった。この日,客の面々は広島カープのリーグ初優勝の美酒に酔い,喜びを爆発させていた。テレビは店内の喜びの様子を中継で伝え,そのことが広島の庶民食,ソウルフードとしての「お好み焼」の存在を,日本の各地に認知させるきっかけになったともいわれる。


1.“重ねる”という流儀
鉄板の上での手慣れたヘラさばき。小麦粉の生地(クレープ)の上にキャベツや天かす,もやし,豚バラ肉などを重ね,頃合いを見てひっくり返し,別途炒めていた中華そばの上に乗せる。それらをさらに円状にした薄焼き卵の上に重ね,再度ひっくり返して地元特製のソースや青のりをつけて客の前に供される。具材をまぜて焼く関西風と異なり,丁寧に重ね焼きするのが広島風の特徴だ。
広島のお好み焼の歩みは復興と重なる。終戦後ほどなく,爆心地から少し離れた,被爆の焼失と倒壊を免れた街角に,鉄板を置いて簡素な食べ物屋を営む店が現れた。その経営者兼作り手には女性が多かった。それは,彼女たちが原爆や戦争で夫を失ったことと関係している。彼女たちは,子供相手の駄菓子屋のサイドビジネスとして戦前からあった,一銭洋食(小麦粉を水で溶いて焼いた薄皮に,ネギや赤エビをトッピングして折りたたみ,醤油ソースを塗ったシンプルなもの)を再び焼き始めた。食糧難の当時,腹をすかした子供たちが家から持ち寄った残り物の野菜や冷やご飯なども薄皮に包み,彼らの空腹を満たした。いわば下町のセカンドキッチンであり,原爆被災者たちの互助精神の発露だった。具材は増すと同時に薄皮との相性で淘汰され,これがお好み焼の原型となった。
その後,中心部の再建が進むにつれ,昭和25(1950)年ごろから新天地にお好み焼の屋台が出現する。屋台では,下町の店で芽生えた「お好み焼」に中華そばを加え,卵でとじる形に商品化し(大人も空腹を満たせるボリュームにし),「そば肉玉」という広島風の基本スタイルが作られていった。同じ頃,お好み焼にほどよくからむ,とろみのある独特のソースも開発された。お好み焼屋は被爆後の広島市民の語らいの場,癒しの空間ともなった。
昭和44(1969)年,新天地のお好み焼の屋台の一部が鉄骨2階建ての建物に集結し,「お好み村」が誕生した。その後もお好み焼屋は増え続け,今日,広島市内には900軒近くあり(県全体では約1,700軒),旅行者や修学旅行生たちの人気スポットになっている。


2.市民と県民が育てる
広島カープは,原爆被災の跡が市内各所に残っていた昭和24(1949)年に産声を上げた。プロ野球界が昭和25年から2リーグ制に再編される機会を捉え, 広島もリーグ加盟に名乗りを上げたのだ。昭和25年1月15日,約2万人のファンが見守る中でカープ発会式が挙行され,3月10日には初試合も行われた。カープ(Carp 鯉)は,太田川でとれる出世魚,広島城の異名「鯉城」などにちなんで命名されたものだ。親会社が経営する他球団と違い,広島の県と市,企業と個人の出資で誕生した「市民・県民の球団」ゆえに,チーム名に「広島」が冠された。
原爆で傷ついた市民を勇気づけるべく創設されたカープだったが,黎明期には,皆実町で被爆した原田高史や,ハワイ日系移民で戦争中に日系人強制収容所に収容された銭村健四のように,「戦争の影」を背負った選手もいた。発足当初からの難題,それは資金不足だった。選手の給料はもとより,遠征費やユニフォームにまで事欠く始末で,監督自ら金策に奔走する有様だった。チームは幾度となく解散の危機に直面したが,そんな時,市民は郷土のチームを支援すべく,職場に後援会を立ち上げ,あるいは球場前に置かれた日本酒の四斗樽(広島には造り酒屋が多かった)に募金するなどして窮状を救った。初代監督の石本秀一は「原爆に打ちひしがれた市民も心のよりどころをカープに求めていた」と回想するが(『読売新聞』昭和50[1975]年10月16日付),ファンも熱意で「わしらのチーム」をバックアップした。昭和32(1957)年7月,原爆ドームに向かい合う位置に,広島で初のナイター設備を備えた広島市民球場が完成,24日に初ナイターが行われた(その後,老朽化のために解体,現在は広島駅近くの新しい市民球場「MAZDA Zoom-Zoomスタジアム広島」,通称「マツダスタジアム」が本拠地になっている)。被爆直後に誕生したカープは広島の復興とともに歩み,地元スポーツの代表として地域密着型プロスポーツの先駆者となった。
万年最下位,リーグのお荷物などと陰口をたたかれ続けたカープ。だが,昭和49(1974)年10月,メジャーリーグでのコーチ経験を持つジョー・ルーツを監督に迎えると(プロ野球界初の米国人監督),帽子とヘルメットを「戦う色」の赤に変更。大胆なトレードとコンバートも奏功し, 翌50(1975)年のペナントレースで「赤ヘル旋風」を巻き起こし,ルーツ辞任後を引き継いだ古葉竹識監督のもとで,10月15日にリーグ初優勝を果たす。球団創設26年目にして念願の初優勝,長く積み上げてきた野球が花開いた瞬間であった。


おわりに
カープとお好み焼,世界遺産の原爆ドームと厳島神社。言うまでもなく,広島の魅力はそれらにとどまらない。スポーツ・文化面では,カープとともに「広島3大プロ」を形成するサンフレッチェ広島(サッカー)と創立半世紀を誇る広島交響楽団が名高いし,かきや小イワシ,もみじまんじゅうや生産高日本一のレモン,清酒など,「広島の味」はバラエティーに富む。また,被爆直後から運転を再開した路面電車やバス,JRや船など交通網も充実しており,旅行者の楽しい旅を後押しする。被爆地広島は苦労と創意工夫,そして挑戦を重ねながら復興を遂げ,国際平和文化都市に再生したのである。

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