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国際平和拠点ひろしま

column 2 ヨウコとサダコ  ―「きのこ雲」の下の子供たち

永井 均

はじめに
昭和20(1945)年8月。日本にとって戦局が極度に悪化した当時にあっても,広島の夏は暑く,人々は日々の生活に追われていた。広島の子供たちの「日常」も戦争一色だったが,それでも彼らはつかの間の楽しみを見つけ,例えば13歳の森脇瑤子(もりわき・ようこ)は学校で裁縫に熱中し,2歳の佐々木禎子(ささき・さだこ)は兄の雅弘に連れられ,自宅近くの川沿いの土手で遊んだ。8月6日の朝の出来事は,そんな彼女たちの人生を一変させた。

 

1.8月5日,途切れた日記 
森脇瑤子は昭和7(1932)年6月に生まれた。小学校の音楽教師だった父の影響もあり,ピアノや歌など音楽が大好きな少女だった。昭和20年4月,あこがれの広島県立第一高等女学校(以下,第一県女)に入学した。入学したものの,戦争のために授業どころではなかった。女学生たちは食糧増産のために校内で農作業をし,防空壕を作った。空襲による延焼被害を防ぐ目的で,あらかじめ建物を解体し,防火地帯を作る建物(家屋)疎開の作業にも従事した。食糧難で栄養不足のために体調がすぐれないにもかかわらず,彼女たちは一生懸命作業に取り組んだ。
授業時間こそ限られていたけれども,そんな中でも彼女たちは楽しみや喜びを見つけた。瑤子の日記には,学校内外の日々の出来事が丁寧な字で綴られている。独特のギャグでクラスを笑いの渦に巻き込む生物の先生。皆で取り組んだ夏服の製作や「夏は来ぬ」などの合唱の練習。「私たちも,やがては母となり」「赤ちゃんも育てるようになるのだから,一生懸命やりました」(5月2日の日記)。授業で弟や妹の世話について学んだ時,彼女たちはそれぞれの将来の人生を思い描いていたはずだ。「昨日,叔父が来たので,家がたいへんにぎやかであった。『いつも,こんなだったらいいなあ』と思う。明日からは,家屋疎開の整理だ。一生懸命がんばろうと思う」。8月5日のこの一節が,瑤子の日記の最後の記述となった。
8月6日の月曜の朝,瑤子は明るい声で「いってきまーす」と言って,宮島の自宅を後にし,いつものように自宅前のなだらかな石畳の階段をかけていった。彼女は船と電車を乗り継いで集合場所の土橋に向かった。午前8時過ぎ,第一県女の生徒223人は建物疎開作業の準備に忙しかったに違いない。そして8時15分,彼女たちの頭上に突如閃光が走り,巨大な爆発と熱線,放射線が一気に襲いかかった。爆心地からわずか700メートル,遮蔽物もない至近距離で原爆の直撃を受けた第一県女の生徒の多くがその日のうちに亡くなった。瑤子は瀕死の重傷を負い,10キロメートル離れた広島郊外の救護所に移送された。13歳の彼女は母が迎えに来るのを心待ちにしながら,その日の夜に息を引き取った。彼女たちのように,広島の各地で原爆死した動員学徒は約7,200人にも上る。

 


2.折り鶴に希望を託す 
佐々木禎子は昭和18(1943)年1月に生まれた。昭和20年8月6日の朝。禎子は母と祖母,兄の4人で朝食をとるところであった(父は徴兵で不在だった)。8時15分,一家は爆心地から北西に1.6キロメートル離れた楠木町の自宅で被爆。家族は軽傷こそしたが皆無事で,禎子も爆風で吹き飛ばされたものの,かすり傷一つ負っていなかった。
戦後の昭和24(1949)年4月,禎子は幟町小学校に入学する。幼い頃からしっかり者で,バラの花と音楽をこよなく愛する少女だった。運動神経が抜群で,6年生の運動会のリレーでは女子のアンカーを務めて大活躍し,チームの優勝に貢献した。美空ひばりの大ファンで,将来は歌手か,中学の体育の先生になることを夢見ていた。そんな彼女を突然病が襲ったのは,被爆から10年後の昭和30(1955)年1月のことだ。病名はリンパ性白血病。2歳の時に受けた原爆が原因の一つである,医師はそう診察した。余命3か月,長くて1年と主治医から告げられ,両親は悲嘆に暮れた。
禎子はその年の2月21日に広島赤十字病院の小児病棟に入院した。入院中,彼女は原爆による放射線後障害(いわゆる原爆症)で死んでいく子供たちを目の当たりにしていた。周囲は病名を伏せていたが,禎子自身,不治の病であることに気付いていたふしがある。投薬と輸血の繰り返しで,相当につらい治療のはずだったが,禎子は親に心配をかけまいと,「痛い」「苦しい」といった言葉を口にすることなく,逆境に立ち向かった。
昭和30年8月頃,禎子は折り紙で鶴を千羽折ると願いがかなうという言い伝えを耳にし,同室の少女と共に一心不乱に千羽鶴を折り始めた。家族や友だちが見舞いに来た時も,彼女はいつも鶴を折っていた。その姿には,「早くよくなりたい」「生きたい」という強い願いがにじみ出ていた。しかし,その甲斐もむなしく,8か月間の闘病生活の後,10月25日に禎子は永眠,12年の短い生涯を閉じた。禎子の死を悼む広島と全国の子供たちは,原爆で亡くなったすべての子供たちの霊を慰め,世界に平和を築くために記念の像を建てようと募金集めに奔走し,昭和33(1958)年5月,平和記念公園内に「原爆の子の像」を建立した。

 

おわりに
「きのこ雲」の下では,老若男女,職業や国籍の区別なく多くの人々が非業の死を遂げていた。多くの子供たちが一発の爆弾で,それぞれの人生と未来を突然断ち切られた。遺体も見つからず,遺品さえない子供もたくさんいた。かろうじて生き残った子供たちも,家族を失って孤児となり,友人を失い,自らも心と身体に深い傷を負って,戦後を迎えなければならなかった。
瑤子が遺した日記は兄の細川浩史(こうじ)の手で平成8(1996)年に日本で出版され,平成25(2013)年には英訳もされた。禎子の物語はロベルト・ユンクやカール・ブルックナー,エレノア・コアらによって世界中に紹介され,平成25(2013)年には兄・雅弘(まさひろ)が禎子の伝記を刊行した。2人の兄は,妹の無念と遺族としての痛みを胸に,次世代の人々が広島のことを「自分のこととして受け止め,考えて,記憶して欲しい」,「想いやりの心」をもって「かけがえのない日常」を大切にして欲しいと願いながら,妹の人生を語り継いでいる。

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