column 3 復興する街,記憶する街
大瀬戸正司・永井 均
はじめに
かつて「軍都」と呼ばれた広島は一発の原子爆弾によって壊滅したが,それでも市民は「平和都市」を目指して廃墟から立ち上がった。復興とともに広島の風景は一変したけれども,あの日の痛みと記憶が消え去ることはない。
1.変貌を遂げた風景
平和記念公園と中央公園。戦後,2つの公園が広島の都心に誕生した。平和記念公園がある中島地区は,被爆前は住宅が立ち並び,銀行や映画館もある賑やかな場所で,市内有数の繁華街だった。原爆で壊滅した爆心直下のこの街は,原爆の被害を伝え,恒久平和を記念するための公園となった。毎年,原爆が投下された8月6日に平和記念式典が開かれるのもこの場所だ。園内には,原爆死没者慰霊碑をはじめ,多くのモニュメントが建てられており,広島平和記念資料館や国立広島原爆死没者追悼平和祈念館は広島を訪れる世界中の人々に被爆の実相を伝えている。
変貌を象徴するもう1つの風景は中央公園だ。広島市のほぼ中央の基町地区に位置し,広島城は園内の一施設としてランドマークになっている。被爆前,広島城の周辺一帯には軍管区司令部をはじめ多くの軍用施設があった。終戦後に軍が解体されると,その広大な敷地には家を失った人々のために応急の住宅が建設され,市民の暮らしの場となった。その後,再開発によって基町高層アパートや図書館,体育館などの公共施設が機能的に配置され,都心の公園に生まれ変わった。
2.被爆の記憶を引き継ぐ
大正4(1915)年,元安川の河畔にヨーロッパ風の近代的建築物が姿を現した。チェコ人建築家ヤン・レツルが設計した広島県物産陳列館だ。そこは広島県の物産品の販売促進の拠点だっただけでなく,美術展が開かれるなど,広島の名所,街の象徴だった。広島県産業奨励館と改称後の昭和19(1944)年には,戦争のために本来の業務は停止され,政府機関の出張所や統制会社の事務所として使われていた。
原子爆弾は相生橋を目がけて投下され,橋の南東に位置する島病院付近の上空約600メートルで爆発した。爆心地から北西わずか160メートルの場所にあった産業奨励館の被害は甚大で,建物内にいた人は全員即死し,建物は大破・全焼した。だが,爆風がほとんど真上から到達したため壁の一部は倒壊を免れ,ドームの鉄枠とともに象徴的な姿を残した。昭和25(1950)年頃から,市民はそこを「原爆ドーム」と呼ぶようになった。復興の進展とともに,「保存か,撤去か」をめぐって議論が分かれたが,昭和41(1966)年7月,広島市議会は原爆ドームの永久保存を満場一致で決議した。平成8(1996)年12月には世界遺産に登録され,核兵器の恐ろしさを記憶する街のシンボルになっている。
おわりに
原爆により瓦礫と化した当時の広島で,形をとどめた建物は逃げ惑う人々の道しるべとなり,橋は重要な避難経路となった。いわば命の盾ともなった建物は,傷ついた人々を受け入れ,また戦後の復興を支えた。復興の過程で,原爆の記憶をとどめる風景の多くは姿を消してしまったが,被爆建物や被爆した橋,被爆樹木の一部は現存しており,忘却に抗うかのように,あの日の記憶を静かに伝え続けている。