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国際平和拠点ひろしま

コラム:難民支援について(平和推進プロジェクト・チーム 担当者より)

 私は社会人採用で広島県に2017年に入庁し,現在は平和推進プロジェクト・チームに所属し,将来国際平和に貢献する人材の育成や核抑止力に頼らない新たな安全保障理論構築のための海外の研究機関との共同研究事業等を担当しています。

 

 前職は,関西に拠点を置く国際協力NGOに勤務しており,シリア難民やアフガニスタン難民支援の事業に携わりました。一口に難民問題と言っても彼らがおかれている状況は様々で,シリア難民のような内戦の激化により短期間に大量の人々が隣国に避難する「緊急的」な状況もあれば,アフガニスタン難民のように,1979年の旧ソビエト連邦によるアフガニスタン侵攻から始まり,断続的に続く民族紛争やタリバン政権下の弾圧,9.11.(米国同時多発テロ事件)以降のアフガニスタン紛争の中で隣国に逃れ,そこで結婚し子どもが生まれ,一度も祖国を知ることなく育った二世や三世が依然として難民として扱われるという「慢性的」な状況もあります。

 

 私が所属していた団体は,シリア内戦が激化し始めた2012年に隣国のヨルダンに支援センターを設置し,国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)が主導する支援計画に基づき,物資配布や医療支援を開始しました。国連とNGOが共同で実施する支援事業では,支援の公平さを確保するために,各NGOは相談に訪れた難民(※正式な難民認定には厳格な手続きがありますがここでは便宜的に難民という言葉を使用します)の情報をUNHCRが運用する難民支援情報システム(RAIS)に入力するように義務づけられていました。RAISの情報に基づき,乳幼児や高齢者の有無やどの地域のどの世帯が支援を受けていないか,あるいは欧米を中心とした一部の資金力のあるNGOが登録した人に支援が偏っていないかなどを把握するのです。
 登録の際には,UNHCRが発行する避難民証明書(Asylum Seeker Certificate)をもとに家族構成などの簡単な聞き取りを行います。書類に記載されている家族構成に漏れがあってはいけませんし,実際は同一世帯であるのに別々に証明書が発行されている場合が多々あり,その場合は修正した情報をRAISに入力します。この業務は,私と二十歳代半ばのヨルダン人男性の同僚の二人で行っていました。朝から夕方まで登録を待つ人の列がセンターの外まで続くことは頻繁にありました。多い日は100世帯近く登録することもあり,正直登録に訪れた方の顔はほとんど覚えていませんが,ある女性のことはこの先も忘れることはないと思います。
 その女性は五十歳代ほどの恰幅のよい方で,他に十歳ほど年下の親戚の女性を二名連れていました。いつも通り家族構成について質問し,書類のコピーを徴求して,「物資配布等の支援対象になった場合,登録している携帯電話に連絡します」と伝えました。通常,登録業務はここまでであり,次に待つ人を部屋に案内します。ですがその女性は,椅子から立とうとせず私の同僚にアラビア語で話し始めました。登録の際に,「いつ支援が始まるのか」「きちんと公平に支援は行われているのか」「なぜ支援物資配布の準備にこんなに時間がかかるのか」などの厳しい口調で質問を受けることは度々ありましたが,その女性が話すアラビア語の調子は穏やかで,同僚の反応を見ると時折諧謔も交えて話をしているように思えました。アラビア語が分からない私は彼らが何か楽しい世間話でもしているのかと思いました。
 ですが,彼女たちが帰った後に同僚が教えてくれた内容は私が想像していたものとは全く異なるものでした。彼女は内戦前のシリアでは女学校(アラブ系のイスラム圏では基本的に共学はありません)の校長を務めており,多くの子どもたちの教育に情熱をささげてきたこと,校長として社会的地位があり地元のコミュニティで多くの尊敬を集め,そのことに矜持を持っていたこと,その自分が現在見知らぬ土地で物乞いのように援助を求めていることが惨めでたまらないという内容だったと同僚は教えてくれました。同僚は彼女の話しを聞きながら,内心,涙をこらえるのに必死だったと言いました。これはあくまで私の想像にすぎませんが,明るい調子で境遇を嘆くことで,彼女はぎりぎりのところで尊厳を保っていたのかもしれません。この経験は日々の登録業務に忙殺されていた私にとってははっとさせられた瞬間でした。それぞれに異なる人生があり,様々な感情を抱いて登録を受けている。困難な状況にある人を前にして,決してそれが作業となってはいけないのだと反省し考えを改める契機となりました。
 難民支援事業には約4年間携わりましたが,一度平和が失われると,膨大な数の人の人生に取り返しがつかない影響を及ぼすことをまざまざと見せつけられる日々でした。現在,私は核兵器廃絶を目指した平和構築の仕事に携わっていますが,仕事を行う上での原風景はヨルダンとイランで経験した難民支援事業にあります。核兵器を巡る情勢は不透明さを増していますが,全ての人が安心して暮らすことができる核兵器のない平和な国際社会の実現に向けて,広島県職員として様々な取組を続けていきたいと思います。

物資支援の様子

       

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