縮景園と広島の復興
江戸時代初期の 1620 年(元和6年)に広島藩主・浅野長晟(あさの・ながあきら)によっ て築庭された縮景園。広島市の中心部で 400 年も変わらずその場所に位置し、広島の人々 の憩いの場となっている。その変遷と戦後の復興の歩みを上幟町町内会長であり、広島市 立幟町小学校の平和資料室アドバイザーでもある岡部喜久雄さんに伺った。
私は 1948 年(昭和 23 年)生まれで、縮景園のすぐ裏に位置する自宅で育ちました。第一 次ベビーブームの頃ですから近所に同級生がたくさんいて、園内でうなぎを獲ったり、秘 密基地を作ったり、自分たちの庭のように毎日遊んでいました。亥の子祭りの日には縮景園を一周する肝試しも行われましたが、当時は原爆の惨状を詳しく知らず、もし知ってい たらとても怖くて回れなかったと思います。
私は被爆2世でもあり、祖母から原爆の話をたくさん聞かされていましたので、原爆の 被害やそれまでの暮らしについて、自分はたくさん知っていると思っていました。しかし、 昔の地図を見たり、戦前の暮らしや原爆後の状況などの資料を調べ始めたりすると、まだ まだ知らないことがあると感じています。
1945 年被爆後の縮景園表門。園外から撮影している(撮影/川本俊雄氏 提供/川本祥雄氏)
戦時中の縮景園は地域の避難場所になっていましたが、原爆が落とされるまでは空襲の被害はなかったそうです。広島からアメリカへ移民も多くいたので空襲はないのだろうと、当時の人々が勘違いをしていたほどでした。8月6日の当日も、広島市内でたくさんの人が建物疎開の作業に当たっていました。
そして原爆投下の後、被災した人々は水を求めて縮景園に集まります。しかし庭園の木々は焼失し建物は全壊、園内や周辺で数千人の方たちが命を落とし、地獄のようだったと聞いています。
近所の仲間や兄弟と共に、縮景園をバックに岡部さんの少年時代(1956 年・昭和 31 年)
戦後 1949 年(昭和 24 年)に復興作業が始まります。当時、園内にはバラックがずらりと 並んでおり、そこに住んでいた人が主に園内の整備作業を担いました。クスノキは成長が 早いからたくさん植えられたようです。1951 年(昭和 26 年)には再開園し、広島市民の お花見やデートスポットとして、また遠足や撮影をする人などたくさんの人で賑わいまし た。
幟町小学校の資料室。一般の見学も可能だが、2021年6月現在は新型コロナウイルス感染症予防対策のため休止中。再開予定については要問い合わせ。 問い合わせ先: 082-221-3013(幟町小学校)
2020 年(令和2年)には築庭 400 年を迎えました。幟町と縮景園の歴史をまとめたパネ ルを幟町小学校に寄付したことがきっかけで、2018 年(平成 30 年)に幟町小学校にでき た平和資料室のアドバイザーになりました。幟町小学校の歴史や原爆、復興のことも私が 独自で調べ小学校にパネル展示させていただいています。受け身の平和教育ではなく、自 分で学び、それを下級生に教えるよう子どもたちに伝えています。学び教えることで、さ らに自分のものにしてほしいからです。幟町小学校の資料室には、縮景園や平和記念公園 のボランティアガイドの方も来訪いただき、そこで得た知識を人々に伝えてくれています。
縮景園は、たおやかな戦前の広島の姿を感じられる唯一の場所かもしれません。ぜひ一 度足を運んでいただき楽しい時間を過ごてください。そして原爆で全てを失い、そこから 見事に復興した、広島の力強さも感じていただければと思います。
名勝 縮景園
電話番号:082-221-3620
住所:広島市中区上幟町 2-11
開園時間:9:00~18:00(10 月 1 日~3 月 31 日は~17:00)※入園は閉園の 30 分前まで入園料:大人 260 円、高・大学生 150 円、小・中学生 100 円
休園日:12 月 29 日~12 月 31 日
HP:トップページ | 縮景園 (shukkeien.jp)
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