Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1II 広島復興建設計画
1被爆と被爆後の広島
昭和20(1945)年8月6日8時15分,1発の原子爆弾が広島の上空で炸裂し,広島は被爆した。原爆開発から実験段階を経て,現に多くの人間の生活する都市の上空から原子爆弾が投下されたのは人類の歴史上初めてのことであった。ここで多くの人たちが被爆死し,傷つき,そして被爆者となり,また相当に時間が経ってからも次々と障害が現れ,多くの人たちを苦しめた。同時に,被爆により都市が破壊され,具体的には住宅や店舗・工場・公共建築などの建物や,交通施設,通信施設,上下水道などの都市インフラ施設も徹底的に焼失・破壊された。
広島市の市勢要覧復興第一年号昭和21年版(昭和22年3月31日発行)によれば,昭和20年11月30日調べとされている広島県警察部発表では,全焼5万5,000戸,半焼2,290戸,全壊6,820戸,半壊3,750戸とされている。また昭和21年8月調べで爆心地よりの距離別の建物被害の内訳が示されている。全体としては被爆前の建物は7万6,317戸であり,半焼・半壊以上の建物の合計は7万147戸とされている。この数値は資料により異なるであろうが,目安として90%以上の被害であったことは疑いないであろう。
長崎と比較すれば,長崎では爆心地が市街地中心でなかったとはいえ,より強力なプルトニウム爆弾による被爆であり,人的被害の重軽傷者の多さとともに,広域に被害が及んだことを示している。ちなみに長崎における建物被害は全焼1,494戸,半焼150戸,全壊2,652戸,半壊5,291戸と相対的に半壊の割合が大きく,これも広範囲の区域に被害が及んだことを示している。
2復興計画への模索・準備と各種復興構想
(1)応急復旧
被爆後少しでも元の生活に近い形で生活できる場を確保しようとすれば,復旧という過程が必要である。インフラの応急復旧により交通や電気,水道等の確保が急がれた。こうしたなか,電車の復旧は比較的早かったといわれる。電車網回復・維持の懸命な努力の結果,被爆3日後の8月9日には己斐―西天満間の片側運転を再開した。一方,国鉄山陽本線は2日後の8日に広島―横川間が開通し,9日には芸備線も開通している。
しかし9月の枕崎台風や10月の豪雨により折角応急復旧していた橋が落ちたり,破損したりして,またしても市民生活に影響を及ぼすことになるのである。
幹線道路は最初とりあえず通行できるように障害物が取り除かれ,次いで橋の手すりや路面の改修等が進められた。とくに著名な光景は相生橋の復旧工事(写真3―1)であろう。水道復旧は漏水を止めながら進められたが,容易に全面的な復旧に至らず,市内で多くの井戸が掘られ,井戸水が重宝されたのである。
復興に至る過程として実施されたのは,戦災地応急対策である。『戦災復興誌第7巻広島市』によれば,「戦災地応急対策として取敢えず罹災地の清掃事業より着手したが,戦災復興事業を西部,東部の2地区に分けてそれぞれ広島県,広島市に於て実施することとなったため,清掃事業も西部地区を広島県事業により,東部地区を広島市事業により実施した。」とある。国庫補助対象事業としての清掃事業は昭和21(1946)年度に始まり昭和24年まで実施された。
さらに金属回収事業も実施された。事業費も必要とされたが,回収された金属が売却され戦災復興事業費に繰り入れられた。戦災死没者会葬事業も必要となった。
上水道の被害は取水場,浄水場,給水施設等において甚大であったが,上水は生活必需品であり,送水ポンプの稼働は被爆後4日目に再開された。しかし至るところで噴水・放水を生じることとなり,被爆後相当期間漏水に悩まされ,末端までの水道管の補修が難事業であった。市周辺部まで給水ができる状態に復旧するまでに9か月を要したといわれる。こうして戦後広がったのは手押しポンプによる地下水くみ上げであった。
下水道については,広島では雨水,汚水の合流式であり,抽水所の被害,入孔蓋,吐口の被害が甚大で,応急復旧により排水可能とするも強い降雨があればたびたび浸水の被害が起きた。抽水所の応急復旧,下水管の清掃,整備によって少しずつ改善を図っていったのである。
住宅対策事業は応急的な対策であり,かつ中長期的な展望も必要な政策であった。政府も住宅営団という戦時下で機能していた組織を動員して住宅建設を進めた。広島では基町の中央公園予定地に昭和20年から22年にかけて越冬住宅743戸,市営住宅1,038戸,県による引揚者住宅34戸,合計1,815戸を建設して,一大住宅地としたのである。このことは後に復興事業をどのように終息させるかという重大問題として圧し掛かることになるのである。
(2)復興構想の提案,各種計画思想
広島市の復興計画は,広島県と広島市の双方で取り組まれた。もともとは県のリーダーシップで広島市の都市計画が策定されていたが,戦後の民主化の路線の中で行政権限の広島市へのシフトが志向され,広島市自身の取組が本格化した。
昭和21(1946)年1月8日,広島市に復興局が創設され,名古屋市から千葉県出身の長島敏復興局長が迎えられ,併せて市長の諮問機関として広島市復興審議会が設置され,2月25日に第1回審議会が開催された。この審議会で活発な議論が行われ,復興に対する期待を大いに盛り上げたのであった。審議会の議事録は「広島新史資料編II復興編」に収められており,審議経過や決定事項など多くの情報を入手することができる。
この復興審議会を創設したのは木原七郎市長であった。原爆投下時は粟屋仙吉市長であったが,即死状態であったとされ,戦後の昭和20年9月に木原市長が選出され,しばらく市政を担当した。そして昭和22年4月に行われた戦後初の公選により復興審議会では委員として参加していた濱井信三が市長として選出され,その後の戦災復興期の主要な市政業務を担うこととなった。
この復興審議会では,いくつもの提案がなされた。また復興審議会だけでなく,新聞や雑誌等さまざまな場で多くの構想が提案された。すなわち,戦後広島の構想段階における特徴的なことは,きわめて多くの構想が提案されたことである。
終戦直後に提案された構想から主なものを抽出するならば,1都市移転構想,2小都市思想,3地盤嵩上げ構想,4河岸緑地化構想,5渡辺滋案,6峠三吉案,7丹下健三案,8マイルス・ヴォーン提案,9タム・デーリング提案,10ジョン・D・モンゴメリー提案,11S.A.ジャビー提案である。これらは,さまざまな形で提案されたものであり,一つの計画思想に多くの人がかかわっている場合もあれば,一人の提案者が多くの構想を含んだ提案をしている場合もある。すなわち,計画思想の提示の仕方が一貫しておらず,細かく捉えればきわめて多くの計画思想が提示されたことになる。都市移転構想は高良富子ほかによって提案されたもので(図3―1),被爆した市街地の中心部分をそのまま残して新しい都市を別の場所に作ればよいという考え方は,種々の事情で現実に採用することはできなかったが,計画思想としてみればきわめて鮮明で衝撃的である。地盤嵩上げ構想は松田重次郎ほかによって提案されたもので,それまで水害に悩まされてきた広島を復興に際して地盤を嵩上げしておくという画期的なものであった。その他懸賞論文に入選した峠三吉による『1965年のヒロシマ』提案も注目される。また小都市思想というのは広島市の将来人口の予測はきわめて少ないもので,それは積極的に小都市の方がよいという積極論と,大人口を予測しても無理であろうという消極論であった。当時としては被爆後の広島の人口は小都市でしかないとの予測であったのである。
こういった構想は日本人だけでなく,外国人,とくにアメリカ人,オーストラリア人からも提案された。なかでもジョン・D・モンゴメリー,S・A・ジャビー,マイルス・ヴォーン,タム・デーリングといった外国人が目立つ存在であった。これらの提案に共通する特徴は,原爆ドームの保存提案にみられるような記念性,保存性の重視であった。
このように提案された多くの構想ではあるが,採用されて実現に向かったものはわずかであった。河岸を緑地化しようという提案は後に実現したが,多くは提案のままで終わった。
3当初の広島復興建設計画の内容と事業への取り組み
(1)法定計画の仕組み
日本における都市計画の制度として,法定計画としての都市計画決定という独特の過程がある。これは,大正8(1919)年に公布された都市計画法とともに確立された制度で,ある計画についてあらかじめ原案を作成して議案としたものを都市計画広島地方委員会で審議・決定し,さらにその計画案を事務局である広島県担当課と内務省とで事務的処理をして,内務省による官報告示という形で最終的に決定に至るという一連の過程である。戦後の復興計画については内務省告示が戦災復興院告示へと変更されて継続されたのである。
昭和15(1940)年時点で都市計画決定された道路があり,この計画に基づいて昭和初期に都市計画事業が実施され,新たな都市計画道路が姿を現しつつあったときに,日中戦争に突入し,太平洋戦争となり,やがて多くの事業が中断することとなった。戦後の復興計画は,これをベースとして開始されるのである。
戦後,昭和21年に広島県と広島市で調整して復興計画の原案を作成し,戦災復興院を交えて調整し,それを都市計画広島地方委員会の議を経て戦災復興院告示という形で決定した。
広島の復興計画に関して戦後最初の議題は,昭和21年9月16日に開催された第39回委員会での「広島復興都市計画道路決定の件」というものであり,原案どおり委員会決定の後に,10月4日に戦災復興院告示第198号として官報に掲載されて決定した。
また,街路計画の議題の中で都市の性格ということについても説明され,議題の一部としての扱いであった。この段階で平和都市・文化都市さらには中枢都市というキーワードが提示されていたことになる。計画の基本的な内容として,「『広島は世界平和の記念都市である。市の復興は世界平和を象徴するに足る理想的な文化都市を建設することを目標としなければならない。世界の目は今広島に集中されている。』と意ふ〔ママ〕高遠な理想と誇に充ちた気魂があふれている。」と集約されている。
(2)復興計画としての道路計画
道路計画に関しては,第39回都市計画広島地方委員会において,委員会幹事である広島県都市計画課長竹重貞蔵は幹事説明として,幹線道路のそれぞれの意味について述べ,市勢要覧によれば次のように説明されている。すなわち,
「幹線街路は単に市内交通の利便を図る為のみならず,都市とその後方地帯並びに衛星都市等を連絡する大動脈である。本計画の樹立にあたっては,焦土と化した広島市を白図とみて根本的な改良が企てられ,東西,南北に広島市と其の後方地域とを連絡するもの,陸の玄関広島駅と海の門戸宇品港を連絡するもの,将来の飛行場予定地と広島駅を連絡するもの,広島駅から市の中心部へ連絡」とある。
とはいえ,まったく白図化したうえでの道路計画ではなく,一部では過去の計画を踏襲し,引きずられた部分を含んでの計画であった。
このように,まず広島のデルタの島々をカバーする形で展開された。すなわち,大きい島では複数の縦軸を,小さい島ではほぼ中央部に縦軸を配し,商業・業務街路であったり,国土幹線であったり,工業地帯を結ぶ幹線であったり,それぞれ性格の異なる横軸を設けて,全体的にはグリッドパターンにみえるが,いくつかの特徴的な形態も包含してまとまりを構成したのである。戦前に決定していた道路を下敷きにしつつ,まったく新たな路線も採用して,歴史的な積み重ねがうかがわれる。そして目を引くルートは,比治山庚午線という主要幅員が百メートルの道路であり,広島駅前付近から吉島方面に向けての斜めに横切る道路の計画であった。前者は通称百メートル道路とされ,後に平和大通りと公式的に名乗ることになる道路である。そして,その南側にもう1本の百メートル道路,出汐庚午線であり,全長約6.1キロメートルのうち,舟入川口町から南観音町までの約1.9キロメートルが幅員百メートルとされたのである。この広幅員道路の去就については後述する。
(3)復興計画としての公園緑地計画
公園緑地の計画については,第40回都市計画広島地方委員会(昭和21(1946)年10月19日開催)で審議し,決定している。そのなかで委員会幹事である広島県都市計画課長竹重貞蔵は公園計画に関連して世界の整備水準について言及している。こうして少しでも整備水準をあげようという意図がみられる。
計画の内容については,大公園は全体で中央公園,中島公園,東公園の3か所(面積合計101.2ヘクタール),緑地4か所(面積合計62.02ヘクタール),墓地1か所(19.29ヘクタール),小公園は全体で40か所(面積合計66.35ヘクタール)というものであった。ただし,この中にはいくつかの既設の公園は含まれておらず,また土地区画整理に伴い配置されていくはずの小公園も含まれていなかった。さらに「この外水都の美を発揮する為,河岸は公園化する計画である」として後の河岸緑地の整備が約束されていたのである。
(4)土地区画整理区域の決定
このように道路や公園の計画を進めたとしてもそのまま実現が保証されたわけではない。確実にその用地が確保されるのには,土地区画整理という手法が必要であった。土地区画整理決定に関しては第39回都市計画広島地方委員会で審議・決定され,昭和21(1946)年10月9日に199号として告示された。
区画整理について,市勢要覧復興第一年号(昭和二十一年版)は,「市街の交通を便利にして通風採光を良くし土地の利用価値を高める上に於て区画整理は大切な事業である。本市の復興計画上の区画整理は焼失市街面積の全部約四百万坪にわたり執行する計画である。本事業は単に土地整理を行ふのみでなく,補助街路,小公園(区画整理公園と云ふ)等の設置も併せて行ふもので,其の執行年度割は次の通りである。」として,市執行分約237.4万坪(783.4ヘクタール),県執行分162.6万坪(536.6ヘクタール)をそれぞれ昭和21~25年度にどの程度の面積を執行するか決定した結果を示している。そしてさらに続けて「以上の如く区画整理によりて街路,公園,緑地,等の敷地を取り,残地を各人に配分する事になるから,敷地面積は約七割位に縮小される予定である。」と記述し,いわゆる減歩率が30%に及ぶ可能性について言及している。すなわち,復興計画は当時の地主・市民に対してきわめて大きな負担を強いるものであったことも触れておかねばならないであろう。
4復興初期における事業化の推進
こうして,復興計画が策定され確定したのであるが,当時の広島市の予算は財政難であり,思いどおりの事業が実施できなかった。そうしたなかで,いくつかの施設の建設に海外からの援助があり実現したものがあった。この件に関しては次章で述べることとするが,復興初期段階における海外からの援助がなされたことが,広島市民の復興への意欲を鼓舞したはずである。
昭和21(1946)年9月16日に土地区画整理の計画決定が行われ,事業の実施に当たっては同年10月に事業決定,執行年度割の決定という手続きを経て着手・推進されていた。行政庁施行という制度のもと,市長執行,県知事執行とし,それぞれ広島特別都市計画事業東部復興土地区画整理事業,同西部復興土地区画整理事業といった。一方,昭和21年2月には基町の商工会議所内に広島県広島復興事務所が開設されていたが,昭和22年1月にそれに隣接するように広島市復興局東部復興事務所も開設された。その後,同年8月に市の執行分のうち15万坪(49.5ヘクタール)の第一次換地の発表(正式には第一次換地予定地発表),9月に県の執行分のうち24万坪(79.2ヘクタール)の第一次換地の発表がなされ,事業が本格化することとなった。
初期の復興状況を示すと,昭和21年8月の広島市調査課での調査によれば,半焼・半壊以上の建物は7万147戸であったが,1年後の復興建物は3万2,242戸となっており,復興割合は約4割6歩という値が出ており,その内訳は新築(本建)1,585戸,修理1万8,486戸,バラック建1万2,171戸という結果が示されており,本格的な建築は少なく修理・バラック建の数値が高いことが注目される。とりわけ,この段階でバラックが1万2,000戸以上も建設されていたことは区画整理制度の欠陥ともいえるが,広大な面積の区画整理には時間がかかるのはやむを得ないといえる。