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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1コラム:差し伸べられた手――海外からの復興支援

はじめに

平成23(2011)年3月11日に東日本大震災が発生したとき,テレビやインターネットなどを通じて災害情報が世界中に即座に伝わり,日本国内はもとより海外からも多くの被災地支援がなされたことは記憶に新しい。他方,今から約70年前に原子爆弾が広島を襲ったとき,関連情報の伝達は質量ともにきわめて限定的ではあったが,さまざまな支援が海外からもたらされた。「海の向こうからのサポート」は,苦境にあった広島市民を物心両面にわたって励ました。

1被爆直後の医薬品の提供

海外の支援者としてもっとも有名なのは,おそらく広島平和記念公園に顕彰碑があるマルセル・ジュノーであろう。スイス人で医師のジュノーは,赤十字国際委員会(ICRC)の駐日主席代表として昭和20(1945)年8月9日に来日した。日本で原爆が投下された噂を耳にするも,終戦直後は連合国軍捕虜に関する状況調査に追われた。8月29日,ジュノーは駐日代表部職員フリードリヒ・ビルフィンガーらを広島に派遣し,現地報告を指示する。ビルフィンガーは30日に電報を打ち,広島は「恐るべき惨状」にあり,連合国軍総司令部(GHQ)とただちに交渉して,救援医療物資を早急に広島に送るようジュノーに求めた。ジュノーはすぐにGHQと折衝して被爆地支援の了解を取りつけ,9月8日に自ら広島入りし,米軍から提供された約15トンの医薬品と医療器材を届けて多くの被爆者を救った1)。

2ヒロシマを伝える

広島の原爆被害について,海外向けに報じた最初期の記事は,日系二世のレスリー・ナカシマとオーストラリア人のウィルフレッド・バーチェットによるものだが2),被爆者との濃密なインタビューを経て,被爆者「個人の物語」をいち早く外国に伝えたのはアメリカ人のピューリッツァ賞作家ジョン・ハーシーであった。ハーシーは昭和21(1946)年5月に広島を訪れ,広島流川教会の谷本清牧師など6人の被爆者にインタビューしてルポルタージュ「ヒロシマ」にまとめ,同年8月31日発行の雑誌『ニューヨーカー』に発表して,全米に大きな衝撃を与えた。同じ年の12月に早くも単行本化された『ヒロシマ』は,当時アメリカ人に未知だった原爆の惨状を生々しく伝え,読者をして広島の復興支援に駆り立てた3)。

広島の被爆体験をヨーロッパに伝えたロベルト・ユンクの存在も見逃すことができない。ドイツ出身のユダヤ系ジャーナリストのユンクは,昭和32(1957)年5月に広島を訪れ,広島市職員・小倉馨の案内と通訳に助けられながら被爆者への取材を重ねた。その2年後,若き2人の被爆者を主人公に「よみがえる広島」を描いた『灰墟の光』を刊行,ヨーロッパで大きな反響を呼び,また佐々木禎子と千羽鶴の物語を世界に紹介するきっかけも作った4)。

3被爆者のために家を建てる

原爆で住まいを失った被爆者の家族のために家を建てたアメリカ人,フロイド・シュモーのことも忘れがたい。敬虔なクエーカー教徒で,ワシントン大学講師のシュモーが広島を訪れたのは,昭和24(1949)年8月,彼が54歳のときであった。20年8月,シュモーはシアトルで広島に原爆が投下されたニュースを聞き,「自分自身に爆弾が落された」,との悲痛な思いを抱いた5)。「悔恨と恥辱の念にかられ,せめて家庭を失つた人々のために住宅を建設しよう6)」―心の痛みと「負い目」に向き合うなかで,シュモーは原爆によって住む家をなくした人びとのために,自分の手で家を建てることを決意し,アメリカで募金を集め,同胞の協力者も得て広島に向かった。

シュモーは広島で日本人ボランティアと協力しながら,3か月で4戸の家を皆実町に建て,4世帯の家族に提供した。彼はその後も「広島の家」造りを指揮し,昭和39年までに江波や牛田に16戸の家と公民館1棟を建設して困窮する被爆者の人びとを支えた7)。現存する「広島の家」は,平成24

(2012)年から「広島平和記念資料館シュモーハウス」として公開されている。

4被爆者の心の傷を癒す

昭和39(1964)年3月,広島市は「原爆孤児に物心両面の援助など平和運動に尽力」した功績をたたえ,アメリカ人のノーマン・カズンズに「特別名誉市民」の称号を贈った。広島平和記念公園内にはカズンズの顕彰碑があり,広島の復興に果たした彼の役割を今なお鮮明に覚えている市民もいるかもしれない。

カズンズは評論雑誌『サタデー・レビュー』の主筆で,昭和24年8月に初めて来広した。広島戦災児育成所を訪れ,原爆孤児たちの窮状にショックを受けた彼は,帰国後すぐに「4年後のヒロシマ」と題する現地ルポを発表する。そのなかで彼は,原爆で肉親を失った子供たちを精神的な養子として家族に迎え入れ,その子の成長をサポートする「精神養子縁組」を提唱,多くのアメリカ人の賛同者を得て,約500人の孤児に対する支援につなげた8)。

カズンズのもう一つの功績は,被爆女性に渡米治療への道を開いたことだ。被爆でケロイドを負った女性たちは,周囲の視線や言葉に深く傷つき,行動が消極的になっただけでなく,表に出ることさえ嫌うようになった9)。昭和28年9月,カズンズは3度目の来日時に谷本清牧師の紹介で10人の被爆女性と面会し,このときの出会いがきっかけとなって,女性たちの渡米治療の運動に打ち込んだ。彼の奔走とアメリカの医師やクリスチャンなど民間の支援により,手術や渡航・滞在にかかる費用,宿泊先などが用意され,昭和30年5月に25人の渡米が実現する10)。「原爆乙女」と呼ばれた彼女たちは,身をもって原爆の悲惨さをアメリカ国民に問いかけた。滞在先では,通訳として同行したバイリンガルで日系二世の横山初子(ヘレン横山)が,外国に不慣れで,手術に不安を覚える彼女たちを励まし続けた11)。25人はニューヨークのマウント・サイナイ病院で顔や体のケロイドを消すための整形手術に臨み,31年11月の帰国までに100回以上の手術が実施された。

おわりに

戦後のアメリカでは,原爆投下を正当視する世論が多数を占めていたけれども,これまで見てきたようにアメリカ人の広島支援者は少なくなかった。原爆を投下したアメリカという国の国民としての痛みや人間としての良心,それが彼らを「ヒロシマ」に関わらせ,行動を促したようであった。彼らの存在を想起するとき,我々は彼らの信念を強め,行動を促し,アメリカと「ヒロシマ」の間をとり結んだ谷本清や小倉馨,ヘレン横山など,広島側の仲介者たちの働きがあったことも忘れてはならないだろう。


1)ブノワ・ジュノー(大川四郎訳)「マルセル・ジュノー―一人の『第三の兵士』として」(『愛知大学法学部法経論集』 第 166 号,2004 年 12 月)70 – 74 頁。マルセル・ジュノー(丸山幹正訳)『ドクター・ジュノーの戦い[増補版]』(勁 草書房,1991 年)263 – 275 頁。

2)ナカシマの記事は 1945 年8月 30 日付『ホノルル・スター・ブレティン』に,バーチェットのものは9月5日付の『デ イリー・エクスプレス』にそれぞれ掲載された(西本雅実「ヒロシマ打電第1号」『中国新聞』2000 年 10 月5日付)。

3)谷本清「初版 訳者あとがき」,ジョン・ハーシー(石川欣一,谷本清,明田川融訳)『ヒロシマ[増補版]』(法政大学 出版局,2003 年)211 – 219 頁。

4)『ヒロシマを世界に伝える―核の被害なき未来を求めて』〔ロベルト・ユンク生誕 100 周年記念資料展・関連資料〕(広 島平和記念資料館,ユンク科研グループ,2013 年)4-5頁。小倉馨『ヒロシマに,なぜ―海外よりのまなざし』(溪 水社,1979 年)41 – 60 頁。

5)同前,小倉『ヒロシマに,なぜ』8-9頁。

6)フロイド・シュモー(大原三八雄訳)『日本印象記―ヒロシマの家』(広島ピース・センター,1952 年)22 頁。

7)シュモーについては,前掲,小倉『ヒロシマに,なぜ』のほか,シュモーさんの「ヒロシマの家」を語りつぐ会編『平和の足跡―シュモーさんの「ヒロシマの家」』(私家版,2007 年)も参照。

8)近藤紘子『ヒロシマ,60 年の記憶』(徳間書店,2009 年)91 – 93 頁。

9)同前,60 – 65 頁。

10)谷本清『広島原爆とアメリカ人』(日本放送出版協会,1976 年)174 – 180 頁。

11)原田東岷『平和の瞬間』(勁草書房,1994 年)70 – 71 頁。西本雅実「原爆乙女―検証ヒロシマ 1945 ~ 95 (6)」『中国新聞』1995 年2月 26 日付。

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