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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1IV 基町再開発への道

1 戦後復興の総仕上げという課題

広島という都市の中で,とくに被爆して破壊・焼失した地区での土地区画整理が進み,形態的に整備がかなりの程度進行したとき,中心部の重要な位置にあって取り残されたように佇む基町地区がそのままでよいのかという,新たな計画課題が浮上した。

広島市では昭和38(1963)年ごろから,被爆者援護法に絡めて基町地区での原爆被爆者用住宅の特別法制定を模索したり,広島県では特別立法よりも住宅地区改良事業の施行を模索したりしていたが,同時に県・市でも協議を進め,昭和42年9月に建設省に対して,1住宅地区改良事業の執行,2再開発の基本理念の調整,という内容での説明をして,この難関を打開しようと試みていたのである。昭和42年12月,広島市長は定例市議会において,「市の従来の考え方にこだわらず,基町地区の再開発を住宅地区改良事業で行いたいこと,及び昭和43年2月頃までには県と協議して市の考え方をまとめたい。」と述べ,42年末ぐらいには再開発への意思が強くなっていったことがわかる。

折しも,相生通りでは「広島市基町地区住宅建設促進同盟連合会」を結成し,広島県や広島市,さらには建設省にも働きかけ,陳情を繰り返していた。昭和41年9月にも担当者に対象地区の視察を要請し,地元集会の場に招いて陳情し,建設省担当者から住宅地区改良法適用の可能性について回答を引き出していた(写真5―7)。

2 再開発計画への道とその内容

ここに課せられた難問は,大きくは三つであった。一つは,終戦直後に公的供給され,著しく老朽化し,個別に増築などして著しく過密化していた公営住宅地区をどのように扱い,再開発するかであった。

もう一つは,公的に供給されたわけではなく,いわば不法建築として存在していた相生通りの建物に居住し,あるいはそこで店舗を営み生活していた人たちをどのように処遇するかという問題であった。もう一つの大きな課題は,中央公園や河岸緑地をどのように整備するかということである。これは広島の都市としての重要課題であり,昭和21(1946)年に公園決定した時からの理念の実現の場が最終的に準備されたということである。

再開発計画の策定過程の記述に戻すと,昭和43年5月県・市で基町地区再開発促進協議会を発足させて協議を進め,併行して基町地区マスタープランを,続いて長寿園地区マスタープランづくりを大高正人建築設計事務所へ委託したのである。基町及び長寿園地区再開発計画図の策定は

早くも昭和43年5月であり,長寿園地区マスタープランは44年3月に策定された。こうして同月18日「広島市基町地区」の名称で改良地区指定を受けた。

大高正人建築設計事務所によるマスタープランは,高層住宅を南北方向の軸からずらして折り曲げながらつないでいくという「く」の字型を基本とした住棟形式として両側から囲むように配置し(写真5―8),人車分離を原則とした人工歩廊で店舗や小学校等とも一体的に整備しようというものであった。またほとんどの1階レベルで階段やエレベーターの連絡口を除けば住戸を設けず,柱だけのピロティ型式として地上を開放し,また連結した住棟の屋上には庭園を設けるという独特のスペースを構成するものであった。大高正人は,ル・コルビュジェの提唱したピロティや屋上庭園など近代建築の5原則のいくつかを適用した。基町地区の再開発住宅に供されたのは7.54ヘクタールで,計画住戸2,954戸,人口9,500人であり,人口密度1,260人/ヘクタール,容積率241%というきわめて高密度なもので,高さは14階から20階建(一部,8階,12階建)までの連続棟という高層であった。

長寿園地区では改良住宅として計画戸数650戸のほか,公営住宅486戸,住宅公団賃貸住宅220戸,住宅供給公社分譲住宅204戸の計1,560戸が計画された。ここでも高密高層で,太田川沿いの南北に細長い敷地のため,基町地区の住棟形式を踏襲した。厚みのあるスペースは確保できなかったが,河川側に幅17メートルの緑地を設け,遠くからでも目立つようなスカイラインの構成を意図して都市景観に配慮したのである。

その他の特徴としては,大架構方式の鉄骨純ラーメン構造で,9.9メートル×9.9メートルの正方形に2戸を2階分の1ユニットとした住宅を収容する平面構成であり,こうして主要の住棟が14階建てから20階建て(長寿園では13階建てから15階建て)でほぼ南から北に向けて盛り上がっていくように配置された。基町地区では向き合った住棟群の中に商店街が配置された。

もっとも標準的な住戸については廊下階と,階段で繋がる非廊下階で平面形が異なり,廊下階は2DK,非廊下階は3Kとして,エレベーターは廊下階だけに止まるといういわばスキップフロアパターンであった。さらに単身者用住宅は1Kとして各階廊下接続のパターンも用意された。こうして建設されていった基町・長寿園高層住宅群は広島のなかでもきわめて目立つ存在で,壮観であった。計画通り実現した中央店舗,屋上庭園,ピロティ等もユニークな空間として出現した。

再開発対象の全区域での撤去対象住宅は2,600戸,2,951世帯であり,ここから地区外に移転希望世帯があって2,609世帯が改良住宅への入居を希望し,さらに世帯分離等により261世帯増を見込む必要があった。そのうち,スラムといわれていた河岸堤防の不法建築住宅群での撤去対象は,1,065世帯で地区外移転希望があり,改良住宅入居希望は981世帯,世帯分離による入居希望で84世帯増であった。現実には少しずつ撤去し,撤去した跡に新築し,そこに入居すればまたその住宅を撤去するというように,次第に撤去部分を拡大していった。長寿園では撤去対象の住宅は無かったので,直ちに建設が始まり,ここでの改良住宅には河岸堤防からの入居者が多かった。改良住宅でない一般公募住宅では入居資格のある世帯からの抽選によって入居世帯を決定して,しだいに再開発事業が進んだのである。

昭和53(1978)年10月11日,基町地区再開発事業完成記念式典が執り行われ,同時に記念碑の除幕および記念植樹もなされた。ここに設置された基町地区再開発事業完成記念碑には「この地区の改良なくして広島の戦後は終わらない」といわれたことを引用し,広島の戦後を終わらせるための再開発事業であったことを記述している。

今や相生通りの跡は,基町河岸整備として著しく変貌した。相生通りに住んでいた人たちはそれぞれの選択肢で移転していったが,河岸堤防が県管理ということもあって長寿園再開発の改良住宅への移転世帯が多かった。移転当時よく指摘されたのは,確かにスラムは解消されたが,横のつながりとして強かったコミュニティを高層という縦の繋がりにして,果たして居住者は耐えられるのかという問題であった。今まで昼間はほとんど鍵も掛けず,家の前を通る人が丸見えの状態で生活をしていた。隣近所との付き合いも深く,物のやり取り,貸し借りも日常的であった。それが一転してスチールの扉で,開け放つわけにいかず,時には鍵も掛けなければいけないということになれば,自ずとコミュニティのあり方も大きく変化することになろう。それまでの相生通りがあまりに特殊な環境であったともいえるが,それは現代社会に対するある種のアンチテーゼとしての意味を有していた社会の消滅でもあった。

その後,基町地区におけるもっとも大きな変化は,比較的画一的であった住宅を,いくつかのタイプに改修することが進められていることで,広島市では基町再整備事業の一環で規模増改善として平成17(2005)年度から2DK2戸を3DK1戸に,3K3戸を3DK2戸に,1K2戸を2LDK1戸にする計画であり,広島県では住戸改善計画として昭和54(1979)年度から廊下階の単身用2戸を1戸にする事業を進めている。当初計画で当時の標準設計を先取りした規模であっても,規模と住戸プランを固定することは無理が生じる。居住層によってもさまざまな住宅の規模やタイプが必要となり,転居のシステムや,基町・長寿園高層住宅街をより生かすための仕組みづくりといった新たな課題等,当初計画や事業の欠陥というよりは,現在を生きる関係者に課せられていると考えなければならないであろう。

(石丸紀興)


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