Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol1I 昭和 20 年代の保健・医療の状況
1 終戦直後の保健・医療環境
戦争は,国民の生活をことごとく破壊した。こうした経済や生活基盤の崩壊に伴う衛生状態の悪化は,海外からの復員者や引揚者の帰国とあいまって急性伝染病や肺結核などの病気を蔓延させることになった。しかも医療従事者,医療施設,医薬品の極度の不足に,悪質なインフレーションによる医療保険制度の破綻が加わり,病気になっても治療を受けることのできない患者が続出した。
戦争がもたらした被害は,原爆により市街地のほとんどが焼け野原となり,軍人を除いた被爆人口30から31万人,軍人被爆者4万3,000人,昭和20(1945)年11月はじめまでの被爆死亡者13万人前後を記録した広島市の場合,他都市以上に深刻であった1)。市街地の医療機関は鉄筋コンクリートの病院を除いてことごとく破壊され,残った病院も大きな被害を受け満足に医療活動を続けることができなかった。それ以上に困難を極めたのは,「防空業務従事令書」により疎開することを禁じられたために,原爆投下時に広島市内にいた医師298人をはじめとする2,370人の医療従事者のうち,医師270人を含む2,168人が被爆したために,多くの患者が治療を受けられない状態におかれたことであった2)。
2 終戦後の広島の死亡調査
全国と広島県の主要死因別死亡者数が得られるのは,昭和22(1947)年から,広島市に関しては同24年以降であり,それも少し項目等が相違した内容になっている。
表7―1によると,広島県の主要死因別死亡者数は,基本的には全国と同じ傾向にある。また,昭和24年の人口1,000人に対する死亡率11.6も,全国平均と同一である3)。ただし注意しなければならないのは,こうした結果はあくまでも昭和22年から25年の記録であり,このなかにはもっとも死者が多かった20年と,それに次ぐ21年の統計は含まれていないということである。そうしたなかで注目すべき点は,全国に比較して広島県は死亡者数,10万人当たりの死亡率とも他の病気では下回るなかで,癌およびその他の悪性腫瘍の死亡率がわずかではあるが,常に全国を上回ることである。
広島市の死因別死亡者数は,表7―2のように1位は全国と同じ全結核であるが,消化器系が高く頭蓋内血管の損傷が低く,呼吸器病と癌および腫瘍はあまり変わらない。また5大病の占める比率が低いという特徴がみられる。いずれにしても原爆の影響がもっとも大きかった時期を欠いており,確定的なことはいえない。
3 終戦後の保健所の活動状況
終戦直後の混乱期に広島県においても,急性伝染病や肺結核,性病が蔓延した。こうしたなかで,充分とはいえないまでも対策を講ずることができたのは,厳しい財政にもかかわらず,連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指導のもと,医療・衛生行政の改革がなされたことによる面が大きい。これにより地方衛生行政は警察から離れ,厚生省―都道府県衛生部―保健所―市町村という体系が確立した。とくに公衆衛生担当の第一線機関となった保健所の果たした役割は大きかった。
昭和22(1947)年9月5日,GHQの意向に沿って全面的に改正した「保健所法」が制定され(昭和23年1月1日施行),保健所は公衆衛生のほとんど全分野にわたる指導業務に当たることになった。新政策に対応するため広島県は,終戦まで設置されていた19の県立保健所の整備に努めた。こうしたなかで,23年5月に各都道府県に理想的な保健所を設けることを目指した「模範保健所設置の件」,6月に人口15万人以上の市を対象とした「保健所の市移管に関する件」が出されたことにより,8月1日に広島保健所と呉保健所(モデル保健所)は両市に移管された。なお呉保健所がモデル保健所に指定されたのは,占領軍の司令部が置かれていたことによる4)。
4課,職員120人余の体制でスタートした呉市保健所は(ちなみに広島市保健所は31人),ただちに結核,性病,寄生虫,トラコーマに関する予防事業計画書と母子衛生栄養事業計画書を作成した5)。昭和19年に1,650人を記録した法定伝染病患者が,占領軍からの厳しい指導,援助もあり徹底した消毒などにより,同20年に603人,21年に397人,22年に147人と減少したのに対し,結核や性病などの届出伝染病が多発していたことが,こうした計画を策定する原因になったものと思われる。
とくに結核は,昭和23年に1,523人(死者472人),同24年に1,775人(433人)と患者数だけでなく,死亡数も多く,24年には「呉市保健所結核対策要綱」(5カ年計画)を策定,結核予防知識の普及,ツベルクリンやBCGの接種,ツベルクリン反応強陽性者へのX線間接撮影,発病者の療養指導などを実施,30年には患者・死者が924人(137人)に減少した。
性病については昭和24年10月11日に呉市保健所内に性病診療所を併設するなどの対策がとられたが,相変わらず2,000人台の患者を記録,朝鮮戦争期の同26年には3,916人,27年には5,469人と最悪の事態となった。こうしたなかで保健所は,3,000人と推定される売春常習者に5組合を結成させ定期健診を受けるように指導,これを受け入れないものに対しては,「駐留軍憲兵隊の協力によって,週四回取締りを実施」するとともに,警察と共同で,「毎月二,三回の一斉取締りを実施」したが6),患者が2,000人台に戻るには,英連邦朝鮮派遣軍が全面撤退した31年まで待たなければならなかった7)。
4 終戦後の医療機関と活動状況
昭和22(1947)年以前の広島市の医療統計については,統一的な資料は見当たらない。まず昭和23年,24年,25年の広島市の医療機関をみると,病院が24,35,35,診療所は205,270,230と病院が増加し診療所は大きく変動している。また医療従事者は,医師が360人,520人,551人,歯科医師が139人,128人,151人,看護婦が500人,745人,752人,助産婦が190人,371人,378人,保健婦が60人,91人,94人,薬剤師が225人,277人,286人,医業類似行為者が222人,262人,270人と24年の歯科医師が減少するなど例外もあるが,着実に増加がみられる8)。
これらの医療機関のうちもっとも大規模な国立広島病院は,広島第二陸軍病院関係の疎開分院を閉鎖し,医師10余人,看護婦など50から60人と入院患者約200人を広島市宇品町の大和紡績附属病院に集結し,昭和20年12月1日に開院した。ところが12月5日には,占領軍より在日朝鮮人引揚収容所に利用するので病院を明け渡すようにという命令を受け,やむなく丹那町の元船舶教育隊の空兵舎に移転した9)。
こうしたなかで昭和21年2月初旬に至り,3月末で朝鮮人引揚業務が終了し軍人の復員,民間人の引揚業務が開始されるので,傷病者の受け入れ先として国立広島病院の再開が求められることになった。このため3月初旬から,「船舶司令部の建物を本部として内部を改造し」,また宇品引揚援護局がバラックの病室3棟を新築,さらに丹那町の兵舎も改造し,全部で1,500人の患者を収容できるようにした。
昭和21年4月から9月末まで,約200人の職員により,アメリカやイギリスの病院船から一度に500人から1,000人と上陸する患者を,家庭に帰す者,他の国立病院に転送する者,当病院に収容する者に区分し治療するなど煩雑な業務が続いた。その内訳は,陸軍関係者1,416人,海軍関係者496人,一般人184人,合計2,096人となっている10)。その後は一般市民,とくに被爆者の治療にあたったと述べられている。なお昭和22年4月の資料によると内科,外科,産婦人科,耳鼻咽喉科,皮膚泌尿器科,歯科を有している11)。
次に対象とする日本医療団は,昭和17年4月16日に制定され翌日施行された「日本医療団令」に基づいて,国民体力の向上のため医療の普及,とくに結核の撲滅と無医地区の解消を目指して特殊法人として設立された12)。戦時医療体制の一翼を担った医療団は,昭和22年1月24日の閣議において4月1日をもって解散されることになり,結核療養施設81か所,奨健寮11施設が国に移管された13)。一方,一般病院180か所と診療所は,10月31日に「医師会,歯科医師会及び日本医療団の解散等に関する法律」が公布,11月1日の施行にともない最終的に医療団が解散されることになり,原則として府県および大都市に移管することになった14)。
日本医療団の広島県内における戦時中の活動については,「昭和19年度(自18年4月至19年3月)医療施設収支状況調」(昭和18(1943)年度の誤りと思われる)によって,その一端を知ることができる。この調査をみると,結核療養所として畑賀病院(150床,患者延数2万8,952人),奨健寮として呉(病床,延患者数不明),尾道(50床,3,427人),奥(150床,7,308人)が記載されているが,都道府県病院も地方病院も存在を確認できない15)。
戦後に至り,後述するように広島市においては,被爆者救護所が昭和20年10月5日に閉鎖され,日本医療団病院に引き継がれた。このうち元県立広島病院(広島県立医学専門学校附属医院)の職員を構成員とする草津国民学校救護所は,同21年2月1日に日本医療団草津病院と改称した16)。また矢賀国民学校内の日本医療団矢賀病院は,「狭隘ニシテ且設備不完全ナルノミナラズ学校側児童教育ニモ多大ノ支障ヲ生ジ」るという理由により,同町内の岩鼻に新築移転することになった(昭和21年8月1日起工,22年3月31日竣工予定)17)。
昭和20年10月1日,宇品町13丁目の広島陸軍共済病院(昭和17年11月3日開院)と陸軍病院の井口分院を譲り受けて日本医療団宇品病院と同井口分院が開院した18)。そして昭和22年6月1日には,日本医療団の草津病院と宇品病院が合併,宇品病院の施設を使用して同団広島県中央病院が開院した(院長には草津病院長の黒川巌が就任)19)。
この間の昭和21年2月20日の日本医療団の役員会で経営困難な奨健寮を3月31日までに廃止することを決定,広島県では焼失した呉奨健寮(50床)を廃止,尾道奨健寮(50床の診療所)を地方病院とすることにした20)。その後すでに述べたような経緯により,昭和22年4月1日に畑賀病院(150床),原療養所(188床),奥奨健寮(150床),11月1日に都道府県病院の広島県中央病院,地方病院の瀬戸田病院,呉片山病院,矢賀病院,安芸津病院,中央病院井ノ口分院,忠海病院は県に移管されることになった21)。
このことを知った広島県は,「医療保健施策を強力に推進し以て県民の要望に応へるため」これを受け入れることにし22),厚生省,日本医療団と折衝を続け,昭和23年3月23日,7病院,2診療所を広島県に移管する契約を締結した23)。そして3月31日,「県立病院及び県立診療所設置並びに管理条例」を制定し4月1日,これらの施設を使用して県立広島病院,県立井ノ口病院,県立厚生病院(矢賀病院を改称),県立二河病院(呉片山病院を改称),県立安芸津病院,県立瀬戸田病院,県立忠海病院,県立豊田診療所,県立小畠診療所を開院した24)。
原爆により広島市の医療施設は壊滅的な被害を受けた。しかしながらその復興は,予想したよりも早かったように思われる。そしてそれを可能にしたのは,第二陸軍病院を受け継いで国立広島病院が開院,広島陸軍共済病院の施設を利用して県立広島病院が再出発したように陸軍の遺産であった。また県立広島病院が日本医療団病院の譲渡を受けて再建されたように,医療団が果たした役割も忘れてはならない。ただしほとんどの病院や診療所は医療従事者の確保などにおいて改善の跡がみられるものの,施設や医療器具は不充分であり,その意味では復興はこれからという状態であった。
注・参考文献
1)広島市長崎市原爆災害誌編集委員会編『広島・長崎の原爆災害』(岩波書店,1979 年)266,274 ~ 275 頁。
2)広島市医師会史編纂委員会編『広島市医師会史』第2篇(広島市医師会,1980 年)283 ~ 284 頁。
3)広島県衛生部公衆衛生課編『広島県衛生統計年報』第2号(1949 年度),23 頁。
4)呉市史編纂委員会編『呉市史』第7巻(呉市役所,1993 年)802 ~ 803 頁。
5)呉市衛生部「昭和二十三年度呉市監査資料」。
6)呉市保健所保健予防課「定例監査資料」1952 年度。
7)占領軍の医療については,千田武志『英連邦軍の日本進駐と展開』(御茶の水書房,1997 年)を参照。
8)広島市『市勢要覧 昭和二十三年版』45 ページ,『市勢要覧 昭和二十五年版』69 頁。
9)吉村実(初代国立広島病院長)「広島陸軍病院の原爆処理」(国立呉病院編『国立呉病院 創立 15 年の歩み』1971 年,17 ~21 頁)。なお国立広島病院に関しては,主にこの回想による。
10)厚生省医務局編『国立病院十年の歩み』(1955 年)7,14,99 頁。
11)元木文泉編『広島要覧』(夕刊民声新聞社,1947 年)287 頁。
12)『日本医療団史』(日本医療団,1977 年)37 頁。
13)同前,90 ~ 95 頁。
14)同前,104,178 ~ 183 頁。
15)日本医療団広島県支部「宇品病院一件」1945 年9月起(広島県庁所蔵)。
16)県立広島病院『創立 120 年記念誌』(1999 年)38 頁。
17)前掲「宇品病院一件」。
18)広島市役所編『広島原爆戦災誌』第1巻 第1編総説(1971 年)484 ~ 490 頁および前掲「宇品病院一件」。
19)前掲『創立 120 年記念誌』38 頁および前掲「宇品病院一件」。
20)前掲「宇品病院一件」。
21)前掲『日本医療団史』171 ~ 183 頁。
22)広島県企画室編『県政とその対象の分析 広島県政に関する実相報告書』第2篇,瀬戸内海文庫,1948 年)78 頁。
23)広島県知事と日本医療団清算人との「契約書」1948 年3月 23 日(広島県医務課「土地建物関係契約書一件(県立病院)」(広島県立公文書館所蔵)。
24)『広島県報』1948 年3月 31 日。