Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol23 陸軍関係病院の復興
「被爆者支援」で指摘したように,少なからぬ医療機関が原爆による被害を受け,戦後,軍病院が閉鎖されたにもかかわらず,病院の復興は予想以上に早かったように思われる。そこにはどのような経緯があったのか,広島県病院と国立広島病院に例を取り検証する。
代表的な陸軍兵站基地の広島市には,広島陸軍糧秣支廠,広島陸軍被服支廠,広島陸軍兵器支廠があり,昭和 17(1942)年に陸軍作業庁において働く工員や家族のために宇品町に約230 万円の費用で広島陸軍共済病院が建設され,昭和 18(1943)年 2 月から診療が開始された 10)。なお『広島原爆戦災誌』によると,開院は昭和 17 年 11 月 3 日となっている 11)。
広島陸軍共済病院の規模は,敷地が 7,190 坪で,そこに木造 2 階建の本館,北病棟,南病棟,木造平家建の伝染病棟,隔離病舎などが並んでいた(のべ建坪 3,210 坪)。また被爆当時の職員は,小宮山友郎院長のもと医師約 20 人,看護婦 120 人,看護婦養成所生徒 80 人,その他 30 人,計約 250 人で,収容能力は平時が 250 床,非常時が 500 床であった。
昭和 20(1945)年 8 月 6 日の原爆の投下により,宇品町の広島陸軍共済病院は爆心地から離れていたこともあり,患者,従業員とも死傷者はなく建物の倒壊も免れた。しかしながら「本院並ニ宿舎ハ屋根,窓,扉,殆ド破壊,硝子全壊,天井殆ド墜落,壁半壊」という被害を受けた 12)。こうした中で,広島陸軍共済病院は殺到する被爆者の救護にあたったが,その後は敗戦にともない軍事病院の帰趨が不明な中で戦災施設の修理もままならず休診に追い込まれた。
昭和 20 年 8 月 20 日,陸軍省は,「各陸軍共済病院は各管理官に於て日本医療団に寄附し入院患者の治療は同団に引継ぐ」ことを決定した 13)。10 月 1 日,広島陸軍共済病院と井ノ口分院の土地,建物,備品,衛生材料(器械,薬物)などすべてが日本医療団広島県支部に寄附され 14),前者は同日付で日本医療団宇品病院として生まれかわり,後者も同団井ノ口病院として独立することになった。
新たなスタートを切った日本医療団宇品病院は,昭和 20 年 12 月に,12 万 3,410 円の予算で本館,南病棟,寄宿舎の屋根,窓,扉を応急修理し,昭和 21(1946)年 1 月 21 日に開院した(5 月 27 日当時,医師 8 人など職員 94 人,62 床)。さらに,「戦災地広島市ニ於ケル唯一ノ完全ナル日本医療団病院トシテ活躍セシムルコト」を目指し 15),7 月に 38 万 8,000 円の費用により,北病棟,手術室,伝染病室を修繕し,不完全ながら復興を実現した。
不充分ながらも戦災復興を果たしたものの,日本医療団宇品病院は,「病院ノ土地建物其他院内諸物品等未タ有償無償ノ何レナルカ判然セサル上尚寄附ノ帰趨サヘ危マルヽ」という根本的な問題を抱えていた 16)。この不安は,昭和 21 年 9 月 28 日に,陸軍省を継いだ復員庁第一復員局から日本医療団に対し,「本月より明年三月にかけて在満同胞帰還するについては共済会として之に支給する給与金入用につき譲渡する全国共済病院(六ヶ所)の支払価格金千五百万円を至急交付せられたい」という強い申し入れがあったことによって現実のものとなった 17)。もはや,申し入れのあったように有償譲渡要求を受け入れざるを得ないと判断した日本医療団は具体的交渉に応じ,昭和 22(1947)年1月 31 日に陸軍共済組合清算人との間で 350 万円(宇品病院 242 万円,井ノ口病院 45 万円,医療機機械など 63 万円)の「売買契約書」を交換した 18)。なお,病院の修理費 52 万 6,228 円は,陸軍共済組合精算人から日本医療団に支払われることになった。
昭和 22 年 6 月 1 日,日本医療団宇品病院は日本医療団草津病院と合併,宇品病院の施設を使用して日本医療団広島県中央病院が開院した(院長には草津病院長の黒川巌が就任)。草津病院は,広島県病院(広島医専附属医院)が全壊・全焼した中で生き残った職員が昭和 20 年8 月 9 日に古田国民学校に救護所を開設,その後,8 月 16 日から草津国民学校内の救護所に移転し,昭和 21 年 2 月 1 日に日本医療団草津病院となったのであった。
こうした中で昭和 22 年 10 月 31 日,「医師会,歯科医師会及び日本医療団の解散等に関する法律」が公布,11 月 1 日に施行され,最終的に日本医療団は解散され,日本医療団が経営する施設は原則として府県および大都市に移管されることになった。広島県は,日本医療団の病院と診療所を受け継ぐことにし,厚生省,日本医療団と折衝を続け,昭和 23(1948)年3 月 23 日,7 病院,2 診療所を広島県に移管する契約を締結した。そして 4 月 1 日,県立広島病院,県立井ノ口病院,県立厚生病院,県立二河病院,県立安芸津病院,県立瀬戸田病院,県立忠海病院,県立豊田診療所,県立小畠診療所を開院した。
これ以降,陸軍の医療施設を受け継いで復興した第二例目として,国立広島病院を取り上げる。同病院は,広島陸軍第二病院の職員が疎開先に設置した分院を閉鎖し,医師十余人,看護婦など50~60 人と入院患者約 200 人を広島市宇品町の原爆が投下された直後に臨時陸軍野戦病院として使用された旧大和紡績に集結し,昭和 20 年 12 月 1 日に開院,同時に看護婦養成所も開所した(昭和 23 年 3 月 31 日廃止)19)。
国立広島病院は,傷痍軍人や戦災者を中心とする患者の治療施設として活動を開始した。ところが昭和 20 年 12 月 5 日には,GHQ(連合国軍最高司令官総指令部)から在日朝鮮人引揚収容所として利用するので病院を明け渡すようにという命令を受け,やむを得ず丹那町の元船舶教育隊の空兵舎に移転した。その後昭和 21 年 2 月初旬に至り,3 月末で在日朝鮮人引揚業務が終了し,続いて軍人の復員,民間人の引揚業務が開始されるため,傷病者の受入先として国立広島病院の再開が求められることになった。このため 3 月初旬から,船舶司令部の建物を本部として内部を改造し,また宇品引揚援護局がバラックの病室 3 棟を新築,さらに丹那町の兵舎も改造し 1,500 人の患者を収容できるようにした。
こうして国立広島病院は,傷痍軍人,戦災者,一般市民に加え,引揚者の収容,治療業務を行うことになった。ちなみに引揚者の収容者の数は,昭和 20 年 12 月から昭和 21 年 12 月までの間が,陸軍関係者 1,416 人,海軍関係者 496 人,一般人 184 人,合計 2,096 人。昭和22 年が,陸軍関係者 4,011 人,海軍関係者 533 人,一般人 27 人,合計 4,571 人となっている 20)。残念ながら,この時期の引揚者以外の収容,治療者数は不明であるが,この数字から判断して引揚者を対象とした業務が中心であったと言える。
引揚業務終了後の国立広島病院の一日の平均患者数は,昭和 23 年度が入院 154 人,外来326 人,昭和 24 年度が入院 135 人,外来 250 人,昭和 25 年度が入院 146 人,外来 206 人,昭和 26 年度が入院 182 人,外来 174 人,昭和 27 年度が入院 216 人,外来 182 人と記録されている 21)。そして,昭和 28(1953)年 4 月 1 日,結核患者のための国立療養所広島病院となった。さらに後述するように,昭和 31(1956)年 9 月 30 日に同院は閉鎖され,職員を移籍させるとともに入院患者を移送し,10 月 1 日に,呉市に国立呉病院が開院した。
10) 日本医療団広島県支部「宇品病院一件」1945 年 9 月起(広島県庁所蔵)
11) 広島市役所編『広島原爆戦災誌(第一巻 第一編 総説)』(広島市,1971 年)484 頁。広島陸軍共済病院の被爆前の動向については,本書の 484~490 頁を参照
12) 日本医療団宇品病院「状況報告書」1946 年 5 月 27 日(前掲「宇品病院一件」)
13) 「陸軍共済病院組合財産処理に関する件通牒」1945 年 8 月 20 日(復員局「復員史編さん史料」防衛研究所戦史研究センター所蔵)
14) 「受領証」1945 年 10 月 1 日(前掲「宇品病院一件」)
15) 前掲「状況報告書」
16) 「宇品病院土地建物寄附ニ関スル件」1946 年 2 月 28 日(前掲「宇品病院一件」)
17) 「報告書」1946 年 10 月 3 日(同前)
18) 「元広島陸軍共済病院売買契約書」1947 年 1 月 31 日(同前)
19) 吉村実(初代国立広島病院長)「広島陸軍病院の原爆処理」(国立呉病院編『国立呉病院 創立 15 年の歩み』1971 年,17~21 頁)
20) 厚生省医務局編『国立病院十年の歩み』(1955 年)7,14,99,107 頁
21) 同前,795 頁