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国際平和拠点ひろしま

Leaning from Hiroshima’s Reconstruction Experience: Reborn from the Ashes vol34 つかめぬ実数

原爆で自らも右視力を失い、被爆者運動の先頭に立つ森滝市郎は、広島大教授だったころ「原爆孤児」を支援する「広島子どもを守る会」を率いた。結成は昭和28(1953)年 2月。会は、日本人による「精神養子」を推進し、大学生らは市内の小・中学校や施設にいる子どもたちの実態調査にも当たった。森滝は 2回の調査を基にした「原爆孤児」との論考でこう説いている30。

「集団疎開または縁故疎開していた子供たちが原爆または原爆症により両親を失ったもののみならず父又は母の一方を失ったものでも、その窮状が甚だしいと「気の毒な子供」 という気持ちを込めていつしか「原爆孤児」 と呼ばれるに至ったのである/祖父母に育てられているものでもいつしか「原爆孤児」と呼ばれるようになったのはその窮状が自然そう呼ばせるに至ったのであって、問題はまさしくこの点にあるのである」

孤児を厳密にとらえれば、両親がいない子どもになるが、原爆被害が甚大な広島では、母や祖父母がいても被爆による障害や生活基盤の崩壊から扶養能力に欠け、多くが困窮状態に陥った。地域社会は破壊され、福祉政策も乏しいなか、 親を失った子どもは真っ先に社会の混乱や荒波に襲われる。成長過程においても生活苦がつきまとった。復興が進むに連れて支援が寄せられる一方、窮状を抜け出た人たちから「同情」交じりの心ない視線にもさらされたのである。

厚生省が昭和23年2月1日でまとめた「全国孤児一斉調査結果」によると、両親がいない孤児の総数は12万3511人。うち「戦災孤児」は2万8248人、植民地や占領地からの「引揚孤児」は 1万1351人。広島県は5975人と全国最多であり、「施設収容保護」は456人で、ほかは「祖父母兄姉親戚知人」の「保護」にあるとされている。5975人のうち「戦災孤児」は2541人とあり、大半が原爆に起因するとみるのが妥当だろう。

だが既に、広島県外の親族に引き取られたり、生きるために大阪や東京へ向かったりした「原爆孤児」が相当数いたとみられる。

「広島子どもを守る会」は昭和28年、広島市立小・中45校を通じて423人の「原爆孤児」を確認する。原爆の投下時に乳幼児や国民学校低学年だった子どもたちである。4人に1人相当の28%が「衣食にも事欠く生活困窮者によって養育」されていたこともつかんだ31。

さらに翌29年10月に調査を広げると、小学校で802人(うち女子378人)、中学校で1008人(同539人)の計1810人いることが分かった。当時、小学校は市立34、国立2の計36校で児童総数は約4万3000人。中学校は市立14、私立10、国立2の計26校で生徒総数は約2万1000人だった32。

「原爆孤児」1810人の実態をみると 、「父母を失ったもの」は156人(うち小学校50人)、「父のみ失ったもの」1240人(同624人)、「母のみ失ったもの」414人(同128人)であった。父を失った家庭は「母の手一つ」となり、多くが 「失対労務」という日雇い作業で子どもを育てる苦境にあった。

広島大社会学教室が、「原爆孤児」について昭和35年まで続けた調査によると、約1300人が広島県外で暮らし、多くが身元保証を必要としない職種で働き、転職の頻度も高かった33。被爆地でも就職の際、親がいないというハンディを強いられる。戦災児育成所の出身者も中学を卒業すると、多くが住み込み働きをしたり 、零細工場で働いたりして、自立を図らざるを得なかったのである。


30 森滝市郎 「原爆孤児」 『原爆と広島』(平和と学問を守る大学人の会,1954年)47頁

31 調査結果は前掲『原爆と広島』に収録

32 広島市総務局総務課編『市勢要覧』(広島市役所,1955年)114~117頁

33 広島市役所編 『新修広島市史』第1巻(広島市役所,1961年)655~656頁

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